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課題集 ジンチョウゲ3 の山

○自由な題名 / 池新


○すべてを知り、すべてを見下ろす / 池新
 すべてを知り、すべてを見下ろす作家の特権的地位というものは現代では失われています。文学における真実の問題もおびやかされています。小説家がいくら社会を描くと威張っても、彼の告げるところは、専門家から見れば、常に疑わしいものです。文章と趣向の必要から来る歪曲は、対象の忠実な「再現」とはいい難い。「彼がこう思った、こう感じた」と書いても、「うそをつけ。実はああも、感じたろう」といわれれば、それに抗弁する手段は小説家にはないのです。こうして小説における真実は、内容的にも技術的にも疑われているので、フランスで「反小説」と呼ばれる流派が現われ、人称を混乱させたり、ものを固有の名で呼ぶことをやめたりしたのも、こういう苦悶のあらわれだと思われます。
 しかし視点を変えて考えれば、こういう技法上の工夫も、小説の普通の作法をひっくり返し、小説の小説性を否定することによって、かえって小説の現実性を回復しようという試みと見られないこともありません。
 しかし一方小説家が「彼がこう思った」と書けば、必ずそう信じる読者、小説家に欺されるのを喜ぶ読者というものは必ずいるものです。この領域では錯覚を生ぜしめる手腕があるかないかにかかって来ます。結局は作者が読者の前に押し出す人物に読者の注意を惹きつけることが出来るかどうかにかかって来ます。
 作者がよい主人公を選んで、彼に読者の喜ぶような行動を取らせ、読者の考えそうなことを考えさせればよい、という伝奇小説の原則は現代でも生きているので、雑誌小説や新聞小説が小説読者という集団を維持しているのは、多くの金儲けのうまい作家が、この原則に忠実だからです。
 しかし、小説は十九世紀以来、小説に固有ではない多くの要素を取り入れて肥って来ました。白痴にかえったムイシキン公爵の行動は、本で読んでは「幽霊」の幕切れほどの肉体的緊張も伴わないかもしれない。「吾輩は猫である」がいくらくすぐりに充ちてい∵ようとも、浅草の喜劇一座のように、われわれを苦しいほど笑わすことは出来ません。しかし一方ムイシキン公爵を舞台にのぼせても、「白痴」の読後と同じ感動を与えることは出来ません。映画「坊っちゃん」を観た後には、原作の読後のさわやかな快感は残りません。
 すべてこれらの物語は全部読まれ、人物は隅々まで知られることを要求しているのです。こういう突き詰めた関心は、われわれの生活に、個人の自由の判断によって、左右される部分が増えた時代の産物でした。それ以前は権威とか因習に従ってさえいればよかった(またそうするほかはなかった)のですが、個人の自覚と共に小説も変わりました。要するに市民社会の自由というものと関係がありました。
「いかに生くべきか」を考えさせる小説が、いい小説だといういい方を僕は好みませんが(なぜならそのようにして考えられた生き方が、人を幸福にするとは限らないからです)いい小説がことに当ってわれわれの選ぶべき行動について、考えさせるのは事実です。近代の小説の主人公は、外部から強制されたにせよ、自ら進んで求めたにせよ、なにかを行うについては、行う前に考えるということを、存在の意義とするような生活を送るのです。

大岡昇平『現代小説作法』による)

○■ / 池新