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課題集 ジンチョウゲ3 の山

○自由な題名 / 池新


○ビジネス・マナー書で / 池新
 ビジネス・マナー書で指摘されているような、「ご苦労さま」の誤用が頻繁に起こる原因は、現代の日本では、仕事の出し手と受け手の関係と、日常の人間関係における上下序列意識の間に、乖離が生まれてきたからだと理解できる。おそらく私たちには、「ご苦労さま」は、その語感から、命令をした人がそれを遂行した人をねぎらう言葉と考えるのが自然だという感覚が身についているのである。ところが、現代ビジネス社会における指揮命令の関係の中では、仕事を命じる側が日常生活一般の人間関係でいう目下の人物であることは珍しくない。指揮命令体系の中での上下関係が、日常の上下関係と頻繁に逆転するのである。それゆえ、「ご苦労さま」の使い方が混乱するのだ。
 さて、以上を念頭に「お疲れさま」に話を戻そう。「お疲れさま」を、『広辞苑』にあるように相手の労をねぎらうための言葉と解釈すると、「ご苦労さま」との実質的な差はどこにあるのだろうか。
 それは、「お疲れさま」が指揮命令の関係を前提としないという点に求められなければなるまい。つまり、相手の労苦は自分の指示によって発生したのではないということでなければならない。ここには命令する、されるという意味での上下関係は存在してはならないのである。そうでなければ、「ご苦労さま」と変わりがない。
 そう考えると、「お疲れさま」を挨拶として抵抗なく使うためには、相手の労苦は自分の命令によって生じたものであってはならないことになる。その労苦に関して自分には責任がないということでなければならないのだ。
 つまり、「お疲れさま」とは、相手の経験した労苦に同情しながらも、労苦を生み出した原因は自分とは関係のない第三者にあるということも同時に主張する言葉であり、そこに「お疲れさま」が持つ戦略的効果の本質があるのだ。
 その意味で、「お疲れさま」は相手を突き放した言葉ともいえる∵だろう。私が「お疲れさま」に不満を感じてきたのは、言葉が持つ責任放棄の感触を嫌うためかもしれない。
 しかし、そのような無責任さが挨拶として通用するというのも奇妙である。実際にこの言葉を抵抗なく挨拶に使う人々が、相手の労苦に対して自分が無責任であることを、ことさらに強調したがっているとも私には思えない。
 そこで、さらに踏み込んで考えてみる。すると、「お疲れさま」が挨拶語として定着した背景には、疲れているのは相手だけではなく自分も疲れているという、共同体的な感覚を確認しあおうという戦略的意図があるのではなかろうかということに思いいたる。相手に苦労が発生した責任は自分にはないということを主張するだけではなく、自分も相手も疲れている、ともに何者かに疲れさせられている同志として、お互いに慰めあうという意味合いがあるはずだ。だからこそ、職場の誰かが先に帰るとき、皆でそろって「お疲れさま」と声をかけることが、違和感のない挨拶行為として成立するのである。
 したがって、「お疲れさま」が挨拶語として最近定着した背景には、何者かに疲れさせられているという閉塞感が、現代日本に蔓延していることがあると想定すると、つじつまがあう。実際、『広辞苑』を基準に判断するならば、挨拶言葉としての「お疲れさま」が定着しはじめたのは、バブル経済崩壊直後、すなわち日本が簡単には解決できないさまざまな問題を抱えた長期停滞期に突入した時期からと推測するのが自然であろう。理屈を追求してみると、これは偶然とは思えない。

(梶井厚志「『お疲れさま』」による)

○■ / 池新