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課題集 ジンチョウゲ3 の山

○自由な題名 / 池新

○企業と大学、競争と協調 / 池新
○「鉄ちゃん」と言うんですよ / 池新
「鉄ちゃん」と言うんですよ、とそのとき若きドイツ文学者が教えてくれたのである。何というきっぱりとした、即物的な呼称だろう。少しばかり間抜けでもある。正式には「鉄道ちゃん」なのか? 線路は続くよどこまでも、の歌詞どおりに鉄路への、そして鉄路を駆けるものへの憧憬を膨らませ続けるフェチ男たちが堂々、われらは「鉄ちゃん」なりと胸を張って日々活動にいそしんでいるという事実を、僕はうかつにも初めて知った。そして自分にはおよそ興味のもてない事柄に無償の欲望を傾注してやまぬ人間が世間に遍在していると知ったときに感じずにはいられない、一種の神聖な戦慄をそのときも覚え、普段どおり理知的な口調を崩さずに語り続けるトーマス・マン研究者の白皙の顔を凝視したのだった。
 彼こそは僕が自覚的に出会った「鉄ちゃん」第一号だった。そして第二号が赤ん坊の姿をとって自分の家にやってくるとはそのとき、想像すら及ばないことだった。
 幼い男児と日々つきあっているうちに、わが日常空間にはすっかり鉄道網が張りめぐらされてしまったかのようである。なにしろ相手は起きてから寝るまで、食事でも遊びでも「でんちゃ」「じょうききかんちゃ」がなければ始まらない。少しずつたまってきた彼の蔵書の背中を見れば『JR特急・超特急一〇〇点』『JR山手線一周一〇〇点』『しゅっぱつしんこう』『きかんしゃトーマスのしっぱい』『ゴードンはどろだらけ』等々とある。熱唱するのは「線路は続くよ」「青い光の超特急」。朝起きてまず考えるのは「いのかしら線」に乗って「いのかしらこうえん」に行くこと。毎瞬まいしゅん、どちらを向いても列車くしの連続で、彼が鉄路の夢から解放されるのは「おっぱい」に吸いついているときだけではないかと思われる。
 むろん、「無文字」段階にとどまっている一歳児のこと、いくら毎日絵本や図鑑で研鑽をつもうとも、説明文を読めるわけではない。目で見ながら、親の読み聞かせる声と合わせて図像を記憶に刻∵むのみである。それなのにどうして彼は「すいごう」と「あやめ」と「しおさい」、あるいは「オホーツク」と「すずらん」などという僕には区別のつけようもないと思える類似・同型列車を正しく名指すことができるのか。一種異様なまでの眼力、記憶力を、列車は幼児から引き出してみせる。「のぞみ!」と騒ぐので何ごとかと思う、とまったく関係のない写真に「のぞみ」が豆粒大に写り込んでいたなどということがしょっちゅうだ。しかもたとえば七〇〇系なら七〇〇系を、写真で見ても絵で見ても模型で見ても、幼児は迷うことなく七〇〇系と判断できる。これまた不思議なほどの読解力なのである。新幹線に「新幹線」という以上の分類を考えてみたことのなかった父親などには到底理解の及ばない事態だ。すべては列車たちがいかに強く男児に呼びかけ、アピールしているかということだろう。そのコール&レスポンスによって息子は日々鍛えられ、鉄道との関係を通じて世界を広げていく。
 大げさに言えば――しかし実際これは、大げさに騒ぎ立てたくなるくらいにダイナミックな相互関係なのだが――、幼児は「鏡像段階」のみならず「電車段階」を経ることで(両者の時期はほぼ一致するというのがわが仮説)、言葉と物の緊密な連関を体験していくのである。食事どき、すっかり気を散らせている幼児の注意を惹き、その口を何とか開かせて食べ物を押し込むには、「あっ、一番線にこまち到着!」といったせりふに如くものはない。そのとき彼が開けた口は特急を迎える駅となり、同時に彼自身が「こまち」と同一化している。彼が摂取するのは言葉=電車なのだ。あるいはもちろん、ちゃんと食べれば「立派な運転士さん」「駅長さん」になれるよ、という説得も有効だ。そうすると幼児はぱくりと食いつき、目をくわっと見開きぷよぷよした両腕のわずかな筋肉を硬くして力こぶしを作る。栄養摂取に応じることで、九十センチたらずの小さな体はたちまち栄光の身体と化す。

(野崎歓『赤ちゃん教育』による)

○■ / 池新