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課題集 ジンチョウゲ3 の山

○自由な題名 / 池新


○時が経過する / 池新
 時が経過する、時間が早い、などと語るとき、つねに「時間」が主語の位置に立つ。しかしそうして時間を主題化することは、時間のあり方そのものを変えてしまうのではないか。言語による主題化的反省が哲学の方法であるとすると、時間の問題は永遠にその手から逃れさる仕組みになっているのではないか。というのも、時間は言挙ことあげされない仕方でしか経験されない、という面倒な性格をもつように思われるからである。「時間とは何かを誰も私に尋ねないとき、私は知っている」というアウグスチヌス『告白』の有名な逆説も、そのことを物語っているのではないだろうか。
 時間を時間そのものにとどめおくためには、直接に時間を問うという仕方ではなく、時間がそれに即して現象するところの何か、それ自体は時間ではないが、時間と不可分な何ものか、を取り上げるという迂回戦術しかないように思われる。その種のキーワードとしてすぐに思い浮かぶのは、「記憶」であり「風景」である。たとえば記憶は、アウグスチヌスが論じたように、時についての記憶であり、記憶自体が時のうちにある。
 では、風景はどうか。それは、時間よりも空間を表しているのではないか。たしかにそうだが、反面、風景の風景たるゆえんは、それが時の経過と一体であるという点にある。そもそも時の経過は、何をもって測られるのか。風景との関係によってである。
 額に収まった絵や写真が典型だが、風景は空間的・視覚的構造をもつ。それは時間の動きを止め、瞬間において写し取られた世界の見え姿である。時間と空間を対立させる近代的なものの見方に立てば、風景は空間的に表現されるものである。しかし、知性による分析的な見方を離れて漠然と眺めた場合には――じっさい、そういうふうに眺めてこそ風景なのだが、案外それが難しいのかもしれない――、風景はもはや瞬間的な像ではなくなり、額縁の外にはみ出しながら、生き生きとした動きを取り戻すだろう。その動きは、物語と一つになった時間的な動きではないだろうか。∵
 私が哲学的風景論の構想を得たきっかけの一つは、風景というものが実は物語なのではないか、という着想であった。人は日常的な所作の中で、いろんな物事にかかわりあって生きているが、それを誰も風景であるとは言わない。しかしそれは、すでに身体のレベルで生きられている風景だと考えるべきではないか。それは、一人一人のもとでは動きの只中にあって、まだ形をもった映像にはなっていない。しかしそうした個人の体験が、人々によって語られ、集団の共有する物語へと移行した時点で、風景と呼ばれるにふさわしい形をそなえるようになる。そういう「物語としての風景」に、私は「原風景」という言葉を当てはめることにした。原風景を中心にすえて考えれば、風景が物語である以上、それは空間と時間が一体化した構造である。かりに物語は時間的、風景は空間的だとしても、両者のアマルガムである原風景は、同時に時間的にして空間的なのである。

木岡伸夫の文章による)

○■ / 池新