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課題集 ジンチョウゲ3 の山

○自由な題名 / 池新
○ゼネラリストとスペシャリスト / 池新

○近代合理主義の精神は / 池新
 【1】近代合理主義の精神は、思考の過程、あるいはものを考える過程で、さまざまな夾雑物、余計な要素を取り除き、いくつかの単純な原理にしたがって論理を進めようとする思考法をとる。【2】その過程で仕掛けられる判断の基準も、できうるかぎり単純であることが望まれる。そして、その考えられる単純な原理こそが、ふたつのものからそのいずれかを選択するという判断基準であった。
 【3】すなわち、真と、善と悪、美としゅう、正と否など二者択一の論理こそ、近代合理主義が旨とする判断の方法にほかならない。真なる前提から始まって、真なる判断を繰り返していけば、真理に到達すると固く信じられたのである。【4】デカルトが、数学的方法に思考方法のあるべき姿を認めたのも、伝統的な数学がこの真偽二者択一の方法に絶対的に依っていたからだ。
(中略)
 【5】しかし、真偽の弁別を繰り返していって世界全体の判断に達するという演繹的な論理は、世界全体を判断の傘下に収めようとするのだから、当然のことに、判断の普遍妥当性を要求することになる。【6】つまり、ある部分では当てはまるが、べつの部分になると当てはまらない理論は、斉一的な世界像を求める近代の科学的合理主義のなかでは市民権を得ることはできないのである。【7】たとえば、科学実践の現場でも、理論にそぐわない実験結果や現象が現れたときに、それらを無視し捨象しゃしょうして理論の斉一性を守るということが日常茶飯におこなわれるのである。【8】しかし、そうした例外に属する現象が無視しえなくなれば、それを取り込むことのできない理論そのものを変える必要がでてくるわけで、こうして理論の転換がおこなわれるようになる。【9】これが、「科学革命」あるいは「パラダイム・シフト」と呼ばれる現象のひとつである。
 こうした現象は、しかし、世界に対する理論の普遍妥当性という信念ないし確信にも似た意識に由来するものだということがわかる。【0】あらゆる理論は、数学の原理がそうであるように、∵いついかなるところでも当てはまらなくてはならないと固く信じられてきたのである。そうしたなかで、理論に妥当しない例外的な現象は、偶然的なもの、あるいは蓋然的なものとして貶められてきたのである。そして、不確定性原理の出現に見られるように、現象をもれなく網羅し説明する理論の普遍妥当性そのものが揺らぎ出してくると、方法としても、もはや確率統計的な方法をとらざるをえなくなってきたのである。つまり、現象の世界に対し人間の側がなしえるのは、一定の法則を世界に押しつけることではなく、現象のあるがままの姿を記述することと考えられるようになったわけだ。
 理論や法則の普遍妥当性という近代科学の絶対主義的傾向は、相対性理論や量子力学など二十世紀の初頭に相次いで現れる新たな潮流によって、おおいに揺さぶりをかけられた。これらは、学問や理論の世界のなかだけで起こったことのように思われているが、そうではない。われわれの日常生活にも、少なからず影響を与えているのだ。影響を与えているというよりは、むしろ、同じ大きな流れが、理論的世界にも、また日常生活にも現れているというべきなのだろう。
 とにかく、「すべての……は……である」といった論理学の全称判断のようなものに見られる、普遍性への意識をもった思考法は、個の意識が昂揚し、多様性が横溢するようになった社会的意識や日常生活のレベルにおいては、もはや妥当性を失いつつあると考えるべきだろう。

(山本雅男『ヨーロッパ「近代」の終焉』より)

○■ / 池新