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課題集 ジンチョウゲ2 の山

★建築について、「狭い」というのは(感)/ 池新
 【1】建築について「狭い」というのはたいてい負の評価であり、その延長上に「狭苦しい」という表現がある。しかし私は、まぁ状況によりけりであるが、しばしば狭さを快適に感じる。【2】たとえば寝台車がそうで、あの狭い場所に身を置いて間仕切りカーテンを閉めると妙に落ち着いた気分になり、深夜の停車駅で窓側のカーテンを細く開けて人影のないプラットホームを覗き見たりするとゾクゾクと嬉しい。【3】これはたぶん、「あそこ」は広く寂しいが、自分の居る「ここ」は、それから区分されて狭いが心理的に保護された親しい場所になっていると感じるからだ。つまり「ここ」は「狭楽しい」のである。
 【4】これと対照的に、だだっ広い空間はしばしば落ち着けない場所になるもので、たとえばシーズン・オフの観光地のホテルのロビーでたまたま自分一人だったりすると居心地が悪いが、これは自分の居場所が「あそこ」と区別された「ここ」になりにくいからだろう。
 【5】世の中には狭い場所に閉じこめられるのを嫌う人も少なくない。これが病的になると閉所恐怖症(claustrophobia)になるわけだが、私のように広さが苦手な体質も極端になれば、広場恐怖症(agoraphobia)になる。【6】精神の病いというものは人にもともと内在する性向の極端化である場合が多いから、私たちは皆、病いの源を持っているわけで、狂気と正常の間には広いグレーゾーンがあると考えれば人間は多かれ少なかれ広場恐怖的、閉所恐怖的のどちらかの傾向を持っている。
 【7】このどちらが良いかは場合によりけりで定め難いが、どうも住宅の設計には前者、つまり「狭さ」の快適さを理解する性向のほうが適しているような気がする。【8】対照的に「広さ」の快適さを味わえる人は記念碑的建築や儀式の場所の設計に巧みだろうから、建築家としてはどちらが適性とも言えない。
 【9】なぜ住宅では狭さが重要かというと、これは私の住宅観にもよるのだが、住まいとは、基本的に「何にもしない」場所だと思うか∵らだ。【0】そりゃ家事や仕事や勉強もしますよ。そういう「何か」をしている時には、広さのゆとりが便利だし快適でもあろうから、住まいにも広さを要する領域もある。しかし「何もしていない」時、自分の感覚で支配しきれない広さに身をさらすと、落ち着かないのではないか。そういう時「広さ」は、「裸で身をさらす」感じになる。逆に「狭さ」が時として快いのは、自分の感覚で支配し得る領域を「身体の延長として身にまとう」感じになるからだろう。寝台車のブースを快適と感じる時、私はそれを「着ている」。その着心地が良いのは、旅という周囲がよそよそしい状況の中で自分専用の場所としての「ここ」を確保したからで、自宅で寝台車のブースのような狭い場所に寝て快適というわけにはいかないだろう。また狭い場所に自分の意志に反して幽閉されたら耐え難いに違いないので、快適さは自ら進んでそこに引きこもることからくる。独房と寝台車には、着衣で言えば拘束衣と外套のような差があるのだ。
 「ここ」性は、「あそこ」の広さと区別され対照される相対的な「狭さ」から生まれる。つまり「狭さ」とは必ずしも物理的、絶対的なサイズの問題ではなく、「ここ」を適度に限定するように「囲われている」ことである。そう考えると、住まいの本質は「囲い」なのだ。この囲いは、拘束ではなく、「ここ」をつくり出すことによって人の心に安らぎを与え、解放するのだ。
 その意味でご同業の畏友・益子義弘の次の言葉は、まさに至言である。「人が自由になれるには、いくらかのものの支えが必要だ。裸のままでは最早人は生きることはできない。(中略)適度な囲いが人の心を開く力は計り知れない」。

(渡辺武信「空間の着心地」)