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課題集 ゼニゴケ3 の山

○自由な題名 / 池新
○この一年、新しい学年 / 池新

★最後に、現代日本における / 池新
 最後に、現代日本における「宗教性」の行方について、簡単な予想図を描いてみよう。その予想図を描くに当たって、少し遠回りになるが、「宗教社会学」という学問の誕生当初のことを考えてみたい。
 社会学の鼻祖たるマックス・ウェーバーとエミール・デュルケームが、共に宗教社会学に多大な力を注いだのはよく知られているが、それは何故だろうか。言うまでもなく、近代化とはウェーバーからすれば「呪術の園」から脱却する過程のはずだが、よく見るとどうもそうではない。そして彼は、現在の西欧を中心とする資本主義社会の成立に、宗教、殊に禁欲的なプロテスタンティズムの「痕跡」が見られることを大胆に解き明かし、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を著した。この著でウェーバーは、宗教の持つ潜在的な「社会変革力」に注目した、と評せるだろう。一方、デュルケームの生きたフランスにしても、フランス革命からの激しい政治的変動を経つつも、なにやら社会の紐帯としての宗教の役割は消滅していないように見えただろう。そのような時代状況のもと、デュルケームは宗教が持つ「社会統合力」、社会的紐帯としての役割に注目し、『自殺論』や『宗教生活の原初形態』を著した。
 ウェーバーもデュルケームも、社会学という近代に誕生した学知の推進者であり、そのような「近代の子」だったが故に、却って近代社会に潜む「宗教性」を無視できなかったのであろう。彼らの主要業績に「宗教社会学」が鎮座しているのはある意味必然であった。まさに近代社会にとって「宗教」は、「変革」と「統合」の二つの間を揺れ動く「何か」であり、社会秩序を維持したい側にとっても、それを改革したい側にとっても、宗教は一方の特徴を強調され「ノイズ」化されたのである。
 このような「宗教」のありかたを、「まつろわぬもの(服従しないもの)」という用語で表現してみたいと思う。本稿では先程述べたように、現在まさに新たな「まつろわぬもの」として、医療現場において様々な「抵抗(=宗教性)」が生じていることを明らかに∵してきた。これはウェーバーが強調した宗教の「変革力」とまではいかないまでも、少なくともある流れに対して反省を促し、状況を変えるきっかけになるものであるとは評せよう。
 (中略)
 このような「まつろわぬものの声」を聞き続けること、自らの「宗教性」をノイズとして処理せずにある意味「飼い慣らす」こと。このような実践がこれからの我々の「スピリチュアリティ」の進展及び維持の最低条件ではないだろうか。現在の我々が頭を悩ませている「宗教」にまつわる諸問題――例えば「原理主義」の擡頭やカルト問題――は、これらの声を無視し続けた結果、その「声」に復讐されていることを象徴しているのではないだろうか。
 そして、「宗教」を理論的に考察する者も、以下のことを念頭に置かねばならないだろう。すなわち、ロマン主義的に「宗教」の変革力を称揚し過ぎず、かといってシニカルにその秩序の保持への寄与をあげつらうのでもなく、その往還に寄り添うようなポジションを保持することである。つまり宗教研究者は現代の「宗教性」を観察する時、その変革力に注目しようが、その統合力に注目しようが、ウェーバーとデュルケームの両者に同時に仕える一種の「訓詁学徒」たらざるを得なくなるだろう。そしてそのような態度こそ、最も「宗教性」に対して誠実な態度になり得るであろう。

 (川瀬貴也「「まつろわぬもの」としての宗教」による)

○■ / 池新