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課題集 ゼニゴケ3 の山

★「何もない空間」を/ 池新
 「何もない空間」を、意味に満たされた、懐かしい場所へと転換するためには、何が求められるか。それは角度を変えれば、みずからが土地の主役となって、風景をとりもどす戦いでもある。いくつかの必要条件がある。たとえば、記憶の掘り起こし、物語の復権、あらたなる名づけ、といったものだ。飛躍を承知でいっておけば、世界遺産にたいする、ひとつの抵抗の試みとして、そこに地域遺産が浮上してくるはずである。
 ここで、わたしはいささか唐突に、宮沢賢治という作家を思い出す。賢治が創ってみせたイーハトヴ世界とは何であったのか。イーハトヴとはあるいは、「何もない空間」としての、より生々しくは、冷害と飢えにあえぐ、貧しく暗い、「大根をかじる少年」や「娘たちの身売り」に彩られた岩手県を、まぼろしの理想郷へと、劇的にひっくりかえすための魔法の呪文であったのかもしれない。
 賢治はたぶん、空間の場所化のために、きわめて自覚的なイーハトヴ戦略を選び取っている。第一には、記憶の掘り起こしであり、老人たちから聞き書きをおこない、昔からの暮らしと生業、伝承などを取材している。第二には、土地の名づけをおこなって、たとえばイギリス海岸、なめとこ山など、風景にあらたな意味づけをあたえる試みを重ねている。そして、第三には、物語の創造であり、数も知れぬ、土地につながる物語を草稿としてではあれ残した。イーハトヴという名付けと、そこに生まれた物語の群れを思えばいい。賢治がおこなった山野の彷徨は、「詩的な場所」を探すための旅であったのかもしれない。
 賢治の人生は、あきらかに挫折と失敗の連続であり、それは結核によって早くに閉ざされた。いま、賢治の童話とイーハトヴに惹かれて、毎年、数百万人の観光客が岩手を訪れる。すくなくとも、死後の賢治はその土地に、莫大な経済効果をもたらし、多くの人びとが恩恵をこうむっている。「何もない空間」としての岩手を、東北を、まるごとイーハトヴという名の「詩的な場所」に仕立て直す、賢治の壮大な実験は、成功したのかもしれない、そんな感慨に打た∵れるのである。
 グローバル化の時代である。アメリカという「帝国」を基準とした、均質化の暴力が、世界をかぎりなく金太郎アメ化してゆく。それはある側面では、避けがたい流れであるのかもしれない、しかし、その負の側面が大きくせり出しつつある。グローバル化なるものが、さまざまな民族・国家・地域がもっている個性や、内発的な力を削ぎ落とす方向へと働くことは、否定すべくもない現実である。だからこそ、ほんとうの幸福とは何か、という時代錯誤な問いにたちかえる必要がある。逆説的に、自分(国家・民族・地域)とは何か、という問いが浮上してくるのも避けがたい。グローバル化の時代は、その裏返しのように、地域の時代のはじまりをもたらすにちがいない。そうして、地域のアイデンティティの模索がはじまる。土地の記憶の掘り起こしが必要となる。個性的な顔をもった地域を、いかにデザインするか、演出するか、それがある種の普遍性を帯びた問いへと成り上がるのである。
 (中略)
 それぞれの地域の歴史・文化・風土の読み直しをもとに、地域的なアイデンティティの模索をおこなうなかに、しだいに「地域遺産」が姿を現わしてくるだろう。それは神のごとき絶対の他者が、外から認定するものではない。地域に生きる人々が、みずからの幸福のために求め、みずからの意志で選び取るものである。みずからの「かけがえのない風景」を大切に思う心こそが、異質な他者を許し、異質な文化や民族や宗教をあるがままに認め、ともに生きる寛容の精神を育むのではないか。多神教の風土が秘める力を信じたい。

 (赤坂憲雄「地域遺産とは何か」による)