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課題集 ゼニゴケ3 の山

○自由な題名 / 池新
○バレンタインデー、もうすぐ春が / 池新

★たしかに「解放」された / 池新
 たしかに「解放」された旧植民地の人びとにとって「自由」は新しかった、しかもまったく「新し」かったことだろう。というのも、彼らにはかつて一度も「自由」の経験などなかったのだから。その地に「ヨーロッパ」が訪れ、この「文明の中心」に鎖で繋がれる以前には、彼らには彼らなりの自在さがあったとしても、「自由」など必要なかったことだろう。彼らはいわば自生していたのであり、「独立」を主張する必要も「解放」される必要もなかったはずだ。植民地支配によってこれらの地域は、輝かしい発展を謳歌する西洋近代の黒いエクス・マキーナとして、その「進歩と繁栄」に繋縛され搾取され、まさにそのために「独立」や「解放」を必要とするようになったのだ。とはいえ彼らは独立によってけっして「解放」されたわけではない。なぜなら「独立」とは、すでに不可逆的に進行している西洋的歴史のなかで一主体としての承認を求めることであり、彼らが「解放」される空間は、すでに西洋化した世界空間なのだから。そこに「主体」として参入するために、彼らは結局あらためて「西洋システム」という学校に入り、それこそ未知の「自由」を学ばなければならなかったのだ。そのことが現在の世界のいわば既決性というものを端的に示している。
 ヨーロッパは世界化し、世界はヨーロッパ化した。というより、この世界はヨーロッパによって<世界>として形成された。そしてヨーロッパは自己の普遍性の主張を、形成された<世界>の内に実現することになった。ただ、この普遍性の実現が全体としての<世界>の形成として成就したのは、この世界が地球という球体の表面にあるという単純な物理的条件に規定されている、ということには注意しておいてよい。でなければ、普遍性の主張が全体化として実現されるということはありえない。どんなにヨーロッパが膨張しても、それが無限の平面上のことだったら、その普遍性の主張も有限な領域に甘んじるひとつの普遍性にすぎず、膨張の前線の向こうにはつねに未知で手つかずの圏域が広がっているからだ。その外部が、拡張するもの自身をつねに個別性へと送り返す。ただ地球が丸いということが、前線の解消と全体化を可能にするのだ。ヨーロ∵ッパはそのようにして全体となった。
 だがすべてがヨーロッパ化されてしまったとしたら? ヨーロッパが拡張を続けている間は、つまり同化する外部をもつ間は、ヨーロッパは有限な、したがって固有性をもつものでありえた。ただその境界がなくなり、すべてがヨーロッパ化されて全体がヨーロッパ的になってしまうと、ヨーロッパはもはやその固有性を主張しえなくなる。あらゆる差異を超える共通項、全体の全体性たる所以をなすものは、この全体の内でいかなる固有性ももたない所与の条件である。いまヨーロッパはそのような世界の全体性の自明の条件になってしまった。だからこそ、世界のどこにいても「世紀末」を語って何の違和感もないのである。「西暦」は依然としてこの世界の世界性形成の刻印だとしても、もはや個別ヨーロッパへの帰属という意味を失ってしまっている。そして実はそれが現在の状況の象徴的な反映なのである。だからいま「歴史の終り」が語られるとしても何の不思議もない。たしかに歴史は終ったとも言える。だがその「終った歴史」とは、歴史一般ではなく西洋を主体とする世界化の歴史なのである。

 (西谷修『世界史の臨界』による)

○■ / 池新