課題集 ゼニゴケ3 の山
苗
絵
林
丘
○自由な題名
/池
池新
○節分、マラソン
/池
池新
○個性、父親と母親
/池
池新
★しかし人間というのは
/池
池新
しかし人間というのは気まぐれなもので、人間の遊びは、決して玩具によって百パーセント規定されるものではないのである。これは大事なことだと思うので、とくに強調しておきたいが、玩具のきまりきった使い方を、むしろ裏切るような遊びを人間は好んで発明する。そもそも遊びとは、そういうことではないかと私は思うのである。たとえば、汽車や自動車の玩具があったからといって、私たちはそれを必ずしも汽車や自動車として用いるとはかぎらない。もし戦争ごっこをやりたいと思えば、その汽車や自動車を敵の陣地として利用するかもしれないし、お医者さんごっこをやりたいと思えば、それを医療器具として利用するかもしれないのである。玩具がいかに巧妙に現実を模倣して、子供たちに阿諛追従しようとも、子供たちはそんなことを屁とも思わず、平然としてこれを無視するのだ。
すべり台は、必ずしもすべり台として利用されはしない。私の家にも、かつて屋内用の折りたたみ式の小さなすべり台があったものであるが、私はこれをすべり台として用いた記憶がほとんどない。あんなことは、子供でもすぐ飽きてしまうのである。私の気に入りの遊び方は、すべり台のすべる部分と梯子の部分とをばらばらに分解して、すべる部分を椅子の腕木の下に通し、それとT字形に交わるように梯子を設置して、飛行機をつくることだった。飛行機ごっこをすることだった。つまり、すべる部分が翼であり、梯子の部分が胴体なのである。梯子には横木がいくつもあるから、そこに腰かければ数人の子供が飛行機に乗れるのである。このアイディアは大いに気に入って、私はすべり台を私の飛行機と呼んでいたほどだった。ボードレールにならっていえば、「座敷の中の飛行機はびくとも動かない。にもかかわらず、飛行機は架空の空間を矢のように速く疾駆する」というわけだ。
子供たちはしばしば、玩具の現実模倣性によって最初から予定されている玩具の使い方とは、まるで違う玩具の使い方をする。もう一つ、私自身の経験を語ることをお許しいただきたい。私は三輪車∵をひっくりかえして、ペダルをぐるぐる手でまわして、氷屋ごっこをやって遊んだことを覚えている。いまは電気で回転するらしいが、かつては氷屋では、車を手でまわして氷を掻いたのである。
ここで、この私のエッセーの基本的な主題というべきものを、ずばりといっておこう。すなわち、玩具にとって大事なのは、その玩具の現実模倣性ではなく、むしろそのシンボル価値なのである。この点については、いくら強調しても強調しすぎることにはなるまい。玩具は、その名目上の使い方とは別に、無限の使い方を暗示するものでなければならぬだろう。一つの遊び方を決定するものではなく、さまざまな遊び方をそそのかすものでなければならぬだろう。すべり台にも、三輪車にも、その名目上の使い方とは別に、はからずも私が発見したような、新しい使い方の可能性が隠されていたのだった。つまり、これらの玩具には、それなりのシンボル価値があったということになるだろう。
私の思うのに、玩具の現実模倣性とシンボル価値とは、ともすると反比例するのではあるまいか。玩具が複雑巧緻に現実を模倣するようになればなるほど、そのシンボル価値はどんどん下落するのではあるまいか。あまりにも現実をそっくりそのままに模倣した玩具は、その模倣された現実以外の現実を想像させることが不可能になるだろうからだ。その名目上の使い方以外の使い方を、私たちにそそのかすことがないだろうからだ。そういう玩具は、私にはつまらない玩具のように思われる。
(澁澤龍彦「玩具のシンボル価値」より)
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/池
池新