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課題集 ゼニゴケ3 の山

○自由な題名 / 池新
○寒い朝、体がぽかぽか / 池新

★「善」と「悪」とには / 池新
 「善」と「悪」とにはいくつもの基準がある。その基準のひとつに変化スピードがあるといってもよい。たとえば二千年くらいをかけて、日本から稲作が一掃されたとしよう。このケースではおそらく問題はおこらない。なぜなら二千年という長い時間のなかで、新しい日本の食文化が生まれ、農村でも稲作に代わる農業体系やそれに適応した村がつくられているだろうからである。ところが五、六年で稲作を一掃したらどうなるだろうか。この場合は私たちの食生活も、外食産業や流通、小売業も、大混乱に陥るであろうし、農山村では破滅的な事態が発生するかもしれない。
 たとえ同じ内容のことが実現されたとしても、変化を受け入れ、対応していけるだけの時間量を保障した変化とそうでないものとでは、決定的な違いが発生していくのである。そしてこのことは、地域を考えるときの重要な要素でもあると私は思っている。
 かつて、多くの人々が、自分たちは地域とともに暮らしていると感じていた頃、その地域はゆるやかな変化とともに展開していた。祖父母が生きたように父母が暮らし、父母が生きたように子どもたちが暮らす。そんな一面が農山村でも都市でも展開していた。もちろんどんな時代にも変化は生じていただろう。だがその変化は、自然や人間が対応できないほどには速くなく、その結果、変化によってこわされていくものより、時間のなかで蓄積されていくもののほうが多かった。だからこそそれぞれの地域に、その地域の自然の利用の仕方や、その地域の方言、食文化、祭りや行事のかたち、地域の人々が大事にした作法や文化が生まれていった。そして人々は、この地域に「自分たちが存在する場所」をみいだした。
 ところが現在では、地域は衰弱している。都市では、人間たちが住んでいる空間はあっても、地域が存在しないというような状況も生まれている、地域をつくりだしていこうとする試みが繰り返しおこなわれているにもかかわらず、である。
 それは現代の社会が、地域が生まれていく時間量を保障しえないかたちで、変化を進行させてしまうからである。街の景観も、そこに住んでいる人々も、生活のかたちや労働のあり方も、ものすごいスピードで変わっていく。これでは地域らしさが形成されていく時間量が確保できないのである。
 とすると次のような結論が生まれることになる。私たちは「地域∵的な空間」の激しい変化を受け入れながら、そこに地域らしい地域をつくろうとすれば、自己矛盾に陥ってしまう。少なくとも残された自然の姿、そこに住む人々、基本的な景観、生活や労働、地域文化のかたちといったものが、ゆっくりとしか変わらない社会をつくらないかぎり、安らぎを感じるような地域は生まれてこない、ということになる。

 (内山節『風土と哲学−日本民衆思想の基底へ−第八十二回』信濃毎日新聞、二〇〇八年七月十九日。)

○■ / 池新