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課題集 ゼニゴケ3 の山

○自由な題名 / 池新
○新学期、冬休みの思い出 / 池新

★われわれは今日 / 池新
 われわれは今日書物の氾濫している社会に生きている。書物に対して何の不思議も感じはしない。それは当り前の存在なのである。しかしそれが出はじめた頃には、人びとはプラトンと同じように、それをうさんくさい存在として、疑惑の眼をもって眺めていたのではないかと思う。そしてそこに批評されている点も大いに当るところがあるとも考えられる。わたしたちは著者の講演などを直接聞くことによって、その著書に言われていることを、何とはなしに全体的にわかったと思うことがある。つまり直接に理解することができたことを、読書によって思い出すことができるわけであって、それは読書だけでは経験できなかったことだとも考えられる。また実際的な書物、例えば料理法とか礼儀作法の書物、あるいは工業技術や経営の実務に関する書物、更に一般的に理科関係の書物には、プラトンの指摘したような書物の二次的、副次的な役割というものがひろく認められるように思われる。実験室や研究室の仕事が主たるべきものであって、それの記録はただ後日メモとして用いるためであり、雑誌なども他人の行った実験や観察の記録を見るためのものであると言わなければならない。だから、自分で実験なり、観察なり、あるいはモデルづくりをしているのでなければ、素人にはまったく寄りつくところもない、閉ざされた書物になってしまう。もしまったくの素人が、そういう記録を読んで、自分だけの空想によって何かわかったようなことを言っても、そのようなにせ知識人は、専門家から冷笑され、黙殺されるだけだろう。書物は既に知っている人にしか役に立たないという、プラトンのパラドクスめいた主張は一つの真理であると言わなければならない。
 しかしながら、ギリシア神話で言えばプロメテウスの贈物である文字の発明を、このようにただ否定的にだけ考えてしまうのは、やはり一面の真理に止まると言わなければならないだろう。現在はラジオやテレビの発明と発達によって、また再度むかしのギリシア人が親しんでいたようなレトリックの復活が見られることになった。演技用の微笑まで用意して、健康によいかどうか疑わしいお菓子の宣伝をする男が、苦い薬をのむことをすすめる医者の下手な演説を圧倒して、大衆の指導者となる時代が来たのである。デマゴギーというのは、ギリシア人のことばなのであるが、意味は大衆迎合の演説ということである。∵
 今日のいわゆる開発途上国社会に見られる独裁者革命は、ほとんどが文字を知らない人たちばかりの国において、ラジオや拡声器を通じての、デーメーゴリアー(大衆迎合の演説)を最大の武器としている。大衆民主主義社会における独裁者の出現という、すでにプラトンが予見していたパラドクスは、「はなしことば」の第一次的な応力の利用に大きく依存していると言うことができるだろう。ヒットラーはそのお手本みたいなものである。このようなレトリックに対して、われわれはディアレクティック(問答法)というものを対立させたのであるが、また別の観点からすれば、文字と書物がこれに対立すると言うこともできるだろう。演説はその場かぎりのものであって、われわれも感情の弱味をおさえられると、普段の判断力も狂ってしまって、とんでもないことを信じこまされることがある。だから、後でまた気が変るということも起る。それを防ぐために、覚書きというものがつくられたりする。文字は一時のものではなくて、一種の恒久性をもっている。それは何度もくりかえして読むことができる。一時の感激ではなくて、冷静な判断の余裕をあたえてくれる。

 (田中美知太郎『学問論』)

○■ / 池新