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課題集 ゼニゴケ2 の山

★(感)進化を含め/ 池新
 【1】進化を含め、歴史を客観的事実の連続として記載すれば、作業量は無限になってしまう。全地球上にわたる、五億年の歴史を記述するには、五億年以上が必要であろう。それはわかりきったことではないか。【2】したがって、歴史家は(さらに当然のことだが、そういうものがあるとすれば、進化史家は)、完全に客観的な歴史ないし進化史などありえないと、はじめから知っているはずである。
 では、歴史はどこまで「主観的」でよいか。
 【3】すでに述べた意味でいえば、歴史はつねに主観、すなわち脳の機能である。数億年なり数千年なりを、数時間の記述にまとめてしまう。それを可能だとするのが、脳の大きな特徴である。それがなぜ可能であるか、その根拠はこの際どうでもよろしい。【4】それが可能であると、脳は信じている。なぜなら、歴史を書くからである。歴史は、その意味では、脳が持つことのできる、時空系の処理形式の一つである。その形式を、昔から「物語」と呼ぶのであろう。だから、歴史は神話からはじまる。
 【5】脳はこうして、さまざまな物語を描く。ただし、歴史という物語は、歴史的な事実との対応を求められ、科学という物語は、物理的事実との対応を求められる。では文学という物語の本家の物語は、どのような対応を求められるのか。作家という人間であろうか。
 【6】さらに、その文学に歴史はあるか。文学が人間に基礎を置くとすれば、人間はここ五万年変化していない。それなら、根本的には文学に歴史はない。さまざまな可能な変異があるだけである。では、文学史とはなにか。
 【7】文学史が「歴史」であるなら、それは事実との対応を求められよう。あるとき、だれかが、こういう作品を書いた。それならたしかに「歴史」だが、その種の歴史はさんざん勉強させられてきたような気がする。
 【8】私はかつて医学部の入学試験を受けた。当時は教養学部が済むと、医学部だけは、あらためて入試があった。その試験では、八科目を受験する必要があったが、そのなかで人文系の科目を一つ選択することになっており、私はなぜか国文学史をとった覚えがある。【9】答案では、物語について述べたような気がするのだが、「物語」ということばは、以来ほとんど使ったことはない。ただそこで記憶しているのは、物語について述べることは、物語自身とは、ほとんどまったく無関係だった、ということだけである。なぜ、そういう∵ことになるのか。
 【0】文学は、理科系における数学のようなものであろう。数学が実験室における証明を要求されないのと同じように、文学の内容もまた、事実との対応を要求されはしない。しかし、文学がある種の「真実」を述べるものであることは、数学と同様であろう。両者は、現実の役に立つような、立たないようなところが、よく似ているだけではなく、脳の機能としては、明らかに食い合わせになっている。文学的嗜好が、数学的嗜好と食い合わせだということは、経験的に、多くの人が知っていることである。逆に、音楽的嗜好と数学的嗜好は、重なることができる。脳は一つしかないから、ある種の類似機能は、一方を立てれば、他方が立たないようになっているはずである。この食い合わせは、おそらく脳のどこかの部分の入口にあって、どちらかが先にそこを通ってしまうと、他方が通りにくくなるという関係から、説明されるかもしれない。だから比較的若年のうちに、文科か理科か、それが決まってしまうのであろう。
 文学の「歴史」がふつうの意味の歴史と違うのは、文学自体が、事実との対応をとくに要求されないという点にあろう。文学の内容がそうである以上、「事実」との対応をおけば、文学史は、文学自体とは当然関係が薄い「事実」を扱うことになってしまう。文学では、評論が主となるのは、ここに原因があろう。文学では、歴史がむしろ評論の形をとることになるらしい。これは、おそらく、数学史、哲学史でも同じことであろう。いずれの分野も、それ自体の内部における整合性しか、根本的には問題にならないからである。
 これらの分野で、「事実」に相当するものは、「書かれていること」以外にない。つまり作品の内容である。それ以外の事実、作家の生年月日とか、性別とか、男あるいは女出入りとか、それを扱うなら、文学「史」になるかもしれない。しかし、それが文学の辺縁に過ぎないことは、だれでも知っている。

(養老孟司『身体の文学史』による)