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課題集 ゼニゴケ2 の山

★(感)人間が、死にたいして/ 池新
 【1】人間が、死にたいして持っている感情は、恐怖なのではなくてむしろ「不安」なのではないだろうか。小さいころに殺人や轢死体などを見ると、こどもは恐怖に襲われる。しかし、こどもは、それを自分の死と結びつけては考えない。【2】ただ、無惨な姿が脳裏に焼きついていて、それが恐怖となっているのである。しかし、中年をすぎて親戚や友人の葬儀に行くと、自分の死と結びつけて考えるようになる。そこにあるのは、死ぬことの恐ろしさなのではなくて、死にたいする漠然とした不安なのである。
 【3】「死にたいする不安を持つのは、人間特有の現象である」と大脳生理学者はいう。つまり、動物には不安のようなものはないのだというわけである。これは、人間の脳のメカニズムから説明されている。【4】かんたんにいうと、人間の脳のなかに「新しい皮質」と呼ばれる部分があって、知識、理性、判断などを支配している。この新しい皮質のなかで、ちょうど、額の下に当たる部分に「前頭葉」と呼ばれている部分がある。これは、ものを考えたり、ものをつくりだしたりする、いわば「創造の座」である。
 【5】人類の遺産と呼ばれているものは、すべてこの前頭葉がつくりだしたものである。それだけではない、科学も文明も文化も教育もすべて前頭葉がつくりだしたものである。この脳の働きをコンピューターにたとえていうならば、前頭葉はソフト・ウェアに相当するもので、前頭葉を除く新しい皮質はハードウェアに該当する。
 【6】ところで、この前頭葉は、人間だけが特別によく発達していて、他の動物では、ほとんど発達していない。そのために、洋服を着ている犬はいないし、「文化」の定義にもよるが、動物にはそれらしきものはないといえる。【7】ただし、幸島のサルがイモを海水で洗ってから食べるのは文化だという説もある。
 死にたいする不安というのは、死にたいする認識があっておきるものである。私たち人間は、死にたいする認識をそれなりに持っている。【8】そこから、不安が発生するわけである。それは、前頭葉で「死」というものを考えることができるから、未来への不安を持つわけである。もしも、人間がその日ぐらしで、未来を考えないとしたら、死への不安はまったくないわけである。【9】たとえば逆行性健忘症ともいわれる、アルコール中毒の末期症状であるコルサコフ症候群になると、すべての記憶を喪失しているために、死を考え∵ることができず、したがって死への不安もない。
 【0】このようにしてみると、死は、形としては動物にもあるが、意識や認識としての死は、人間だけの問題であるということもできそうだ。少なくとも、死の問題を考えることができるのは人間だけであることはまちがいない。そうだとすれば、私たちは、死をタブーと考え、死を考えることをさけるのは、必ずしも正しい態度とはいえないのではないかと思われる。
 高齢化社会を迎えつつある現在、日本人の平均寿命も伸び、人数のうえでも、年数のうえでも、私たちは死を見つめる時間がふえてきた。それでいて、だれでも死からまぬがれることはできない。一度は必ず死ぬ。かつてのように、多くの人々が、若いうちに死ぬ場合は、働きざかりのときにポックリ死ぬ人が多く、死を考える時間的余裕もなかった。しかし、現代は多くの人が高齢まで生きることができる。ことし一年間で生まれた人千人のうち、九五パーセント以上の人は、息子の銀婚式まで生きることができるといわれているぐらいである。それだけ死を見つめる時間はふえたわけである。
 しかし、そのわりに、一部の医師や警察官のような職業の人を除いては、死を見る機会が減っている。かつてのように農耕社会で大家族の場合は、家族の中のだれかが死んだ。それをまのあたりに見て、死を考えたものである。しかし、核家族ではそういう機会はない。死といえば、葬儀にでかけていくぐらいである。これは、やはり一種のセレモニーである。
 一方、医学の発達で、死は新しい問題を提起した。必ずしも心臓移植だけがそうなのではなく「医療器械につながれた生命」のようなものも出現し、そこから「尊厳死」というコトバも生まれた。死を考えねばならなくなったのである。

(水野肇『死』が問う医療の在り方」による)