昨日1890 今日238 合計158744
課題集 ゼニゴケ2 の山

★(感)周知のように/ 池新
 【1】周知のように明治以降わが国でも、この園遊会方式が積極的に採り入れられた。かつての鹿鳴館ろくめいかんの夜会、今日の皇居における園遊会がそれにあたる。そしてむろんそのような形式は、一般にホテルや会館などでおこなわれる各種の立食パーティーに受けつがれ、少人数のホームパーティーや交歓会にまで及んでいる。
 【2】だが、そのような園遊会の方式は、はたしてわれわれの深層の意識までをも変えてしまったのであろうか。かならずしもそのようには思われないのである。さきに私は、かつてわが国の饗宴の核は正客を中心に列座のものが全員手を打ちそろえて、一つの歌をうたうところにあるだろうということをいった。【3】手を打ちそろえることが「うちあげ」であり「うたげ」だったのだといった。宴はあくまでも正客を中心にすすめられ、その正客と主人のあいだに交わされるダイアローグを大きな流れの核として進行していく。【4】そして列座のものが手を打ちそろえることで、その宴の場に中心が形成される。列座のものたちの心がその中心にむかって統合されていくといってよいだろう。そのとき遊びの気分が昂揚し、遊びごころが調和のとれた安定感をうるのである。
 【5】私はさきに、日本の芸能が大道芸から庭芸へ、そして、庭芸から座敷芸へと展開し、しだいに洗練されていったということをのべたが、それは遊びの構図を考える場合にも参考になるだろう。【6】すなわち遊びの空間もまた広い世界から局限された場にしだいに移行していく過程で洗練されていった、というように――。
 饗宴の本質がもしも正客を中心とする「うちあげ」の機能にあるとすれば、遊びの諸要素がその中心にむかって収斂していくのも不思議なことではない。【7】その収斂と凝縮のはてに遊びのクライマックスがやってくる。その求心的な姿勢のなかに遊び心が蘇るといってよい。さきに休日の問題にふれて、家を空にすることへの罪責感のような感情を問題にしたけれども、それもいまいった求心的な姿勢と関係があるかもしれない。【8】中心から外れていくことが、その人間を何となく不安にさせるのである。
 これにくらべるとき、園遊会がそれとは逆に拡散と開放のなかに遊び気分を盛りあげようとする方式であることが明らかになる。【9】そこにはむろん、正客がいないわけではない。正客を迎える主人の∵側の趣向がこらされていないわけでもない。しかしながらその正客も主人も、その園遊会の大きな流れのなかでは遠心的にはたらく人びとの動きからのがれることはできない。【0】正客と主人のあいだの対話は、まさに離合集散する会話の流れによって分断され、その重層する渦巻きのなかにのみこまれていくほかはないからである。
 こうして私は、ヨーロッパの饗宴は遠心力の機能にもとづいて演出されてきたのにたいし、わが国の「うたげ」の伝統は、いまのべたようにむしろ求心力の作用を前提に発想されたのではなかったかと思う。とはいっても、もちろんヨーロッパの園遊会や饗宴の席に儀礼的中心がまったく存在しなかったというのではない。同様にして日本の「うたげ」のなかに拡散や開放の契機やエネルギーがみられないわけでもない。そもそも乱痴気騒ぎや無礼講は、洋の東西を問わず遊びや宴席にはつきものだったからである。しかしながらそのような共通性にもかかわらず、さきにのべた饗宴における遠心と求心の対照性は基本のところで動かないのではないだろうか。

(山折哲雄『近代日本人の美意識』)