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課題集 ゼニゴケ2 の山

★(感)十九世紀の経済学には/ 池新
 【1】十九世紀の経済学には、経済活動を支える要素のひとつとして、人間の欲望を説いているものが多い。より豊かになりたいという欲望や、新しいものをつくりだそうとする欲望、そんなさまざまな欲望が、経済を発展させてきたと、多くの人々は語ってきた。
 【2】ところが、二十世紀に入ると、欲望もまた人々が自然的につくりだしているものではなく、つくられたものではないかという見方が大きく広がってきた。
 たとえば日々流されているコマーシャルが私たちの欲望をつくりだすうえで、一定の役割をはたしていることは確かであろう。【3】企業による新しい価値観の提案も、人々に新しい欲望を生みださせる。いわば今年の流行を企業が示すことによって、それが本当に流行化してしまうような構造が、いたるところで生まれているのである。
 【4】そして私たちはそれを手に入れることによって、それが必要な生活スタイルをつくり、それを手放すことができなくなる。たとえば、電子レンジなどはそのひとつで、電子レンジを使う生活がはじまったことによって、電子レンジのない生活が不便なものになってしまったのである。
 【5】考えてみればお米のない生活をしていた縄文時代の人々が、お米を食べたいと思うはずはない。お米が入ってきたことによって、お米を食べたいと思うようになったのであり、しかもそのお米が不足するとき、お米への欲望は大きくなっていくのである。
 【6】とすると欲望の生産者とは誰なのであろうか。
 はっきりしていることは、近代的な経済社会は、生産と流通と欲望の相互依存的な拡大の社会としてつくられていた、ということであろう。生産の拡大が流通を拡大し、逆に流通の拡大がまた生産を拡大する。【7】商品や情報の流通が欲望を拡大し、欲望の拡大がまた生産や流通を拡大していく。今日の経済社会とは、こんな社会である。
 この社会は、経済を発展させていくうえでは、きわめて便利な役割をはたした。そしてここには、次のような前提があったように感じられる。【8】それは、人間の欲望は無限に拡大していくものであり、経済もまた無限に拡大していくという前提である。その結果、近代以降における経済と人間の自由の関係は、無限に拡大しつづける欲望と経済を前提にした社会での、経済活動の自由でありつづけた。【9】つまり拡大系の経済社会を基盤にした経済的自由だったのである。∵
 ところが、このような経済社会観は、今日になると、環境の面からほころびをみせはじめる。なぜなら経済が無限に拡大できるのなら、資源もまた無限でなければならないにもかかわらず、自然は有限なものであることがはっきりしてきたからである。【0】もうひとつ、経済活動によって生まれる公害なども、一定量をこえると自然が負担しきれないことも明らかになってきた。自然と人間の活動との調和を考えるなら、経済と欲望の無限の拡大を前提にした社会も、その社会を前提にした人間の自由も、間違いなく壁につきあたっているのである。
 おそらくこのような認識が高まるにしたがって、私たちは、新しい社会を作りだす試みを開始しなければならないだろう。すなわち生産と流通と消費とが大きな循環の中で実現し、自然と人間とが循環的に支え合う社会の創造である。
 とすると、そのような社会における、人間の経済活動の自由とはどのようなものなのであろうか。
 これまでの大半の経済学は、自然を無限のものとして扱い、そのことを前提にして、経済と人間の自由について語ってきた。その結果、自由な経済活動が自然を破壊したばかりでなく、人間たちもまた欲望と消費の拡大という渦のなかにまきこまれてしまった。私たちはいま、このような構造の外に出たいと思っている。そして、労働や生活に関する、新しい自由を作り出したいと思っている。

(内山節『自由論――自然と人間のゆらぎの中で』より)