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課題集 ゼニゴケ の山

★人間科学における根本問題は(感)/ 池新
 【1】人間科学における根本問題は、研究の対象が人間であり、それを行う主体の方も人間である、ということである。このことは、人間科学を考える上で忘れてはならないことである。しかし、「科学」という場合、われわれは、まず自然科学のことを考え、わけても物理学をその中心として考えるのではなかろうか。【2】村上陽一郎は「科学」ということについて、常に深い思索を展開してきているが、一般に、科学的ということに対して、「分析的である」という暗黙の前提があり、このことをもう少し詳しく言えば、「現象を、ただ現象としてとらえるのではなく、【3】その現象を、それを成立させている何らかの要素群に分解し、その要素群が、時間―空間のなかでどのように振る舞うか、その有様を記述することによって、もとの現象を説明する」ということになろう、と述べている。【4】そして、このような考えに立つ限り、物理学が科学のなかの模範となってくるのも当然であろう、としている。
 村上の言うとおり、この方法によって近代科学はその方法論を確立し、これによって得た事象の因果関係の法則を知ることにより、人間は自然を支配するようになってきたのである。【5】近代科学の成果は取り立ててここに述べる必要がないほど、われわれは日毎にその恩恵を受けて生きている。このように近代科学の成果があまりにも見事であるので、近代科学による現実認識が唯一の正しいものである、という考えが一般に強くなってきたのも当然である。【6】しかし、ここでわれわれは近代科学が正しいというのと、近代科学による世界観が正しいというのを区別して考えねばならない。
 近代科学のはじまりにおいて、その方法論の根本にいわゆるデカルト―ニュートンのパラダイムがあることを忘れてはならない。【7】このことは、必ずしもデカルトやニュートンという人間がそのような世界観をもっていたことを意味するものではないが、近代科学のよって立つパラダイムを通常このように呼び習わしているのである。
 【8】デカルト―ニュートン・パラダイムにおいて最も大切なことは、明確な「切断」の機能である。自と他を切り離すこと、精神と物質を切り離すことが第一の前提である。他から切り離された「自」が自と無関係に、「他」を観察する。【9】その結果わかってきたことは、「自」と無関係である故に、誰にでも通用する普遍性を∵もつ。このことは実に偉大なことである。ニュートンの見出した法則は、ニュートンという人間、イギリスという国などを超えて普遍的な真理としても提出できる。【0】もちろん、これに対して疑問を呈することは誰でも可能であり、その際は、ニュートンの行ったのと同じ実験を、彼の「自」を事象から切り離す方法を踏襲して行い、検証することができる。論理実証主義という方法論によって、ある法則の正しさが、誰にでも何時でも、確かめることができるようになったのは、実に強力なことである。それのもつ普遍性というものが実に広いのである。 (中略)
 自然科学の方法および、そこから得られる結果が普遍性をもち、その法則があまりに有効であるので、その方法を社会科学や人文科学が借りようとするのも無理からぬことである。そして、そのような方法によってそれなりの成果を得ている。そこで、自然科学の方法を人間に対しても適用することによって、「人間科学」が発展するわけで、生命科学などはこの部類に属するであろう。このような「人間科学」は今後ますます発展してゆくであろう。しかし、これだけによって、人間の研究のすべてをつくしているとは言い難いのである。
 ここで筆者の専門とする臨床心理学における例について考えてみよう。たとえば、ある非行少年に対してわれわれが「自」と「他」の区別を明らかにして、極めて客観的な研究を行った結果、その少年の非行の在り方、両親の生き方、友人の有無などから判断して、「再教育不能」と断定する。その後も客観的観察を続けたところ、確かに非行はますます悪化し、先の科学的判断は正しいことが立証される。このようなことをしても、まったくのナンセンスであることは誰しもわかるであろう。
 このようなとき、臨床家のこころみることは、前述した自然科学的態度とは異なって、その非行少年の行為を「それを成り立たせている何らかの要素群に分解し」たりするのではなく、まず、その少年を一個の全体的な人間として、むしろ、「自」と「他」との区別をできるだけなくするようにして、彼とのかかわりを求めてゆくことである。われわれがそのような態度で接してゆくと、その少年はあんがいに本音で話をしてくれたり、誰にも話をしたことのない∵大切な秘密を打明けたりして、そこから、彼が立ち直ってゆくきっかけが開かれたりする。もちろん、一度や二度の面接で事が解決することはなくて、われわれが前述のような態度で接し続けていると、彼もだんだんと変化して立ち直ってくる。ここは、そのことについて論じる場ではないので省略するが、このような過程を記述することも、「人間の科学」であると言えないであろうか。
 キュブラー・ロスは死にゆく人を看とって、その過程として一般的に言って、1死の否認、2怒り、3(神との)取り引き、4よくうつ、5死の受容、の五段階を経ることを明らかにした。彼女のこのような発見は、現在においてターミナルケアをする人たちに対する重要なひとつの指針となっている。このことにしても、もしキュブラー・ロスが死んでゆく人を「客観的観察の対象」とする態度で接していたのでは、決して明らかにならなかったであろう。つまり、研究の対象である人間に対して、研究者がどのような態度をとるかによって、そこに生じる現象が異なってくるし、また、そのことこそが人間の研究にとって極めて大切なことなのである。

(河合隼雄「人間科学の可能性」による)