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課題集 ゼニゴケ の山

★新しい世紀にむけ(感)/ 池新
 【1】新しい世紀にむけ、何を次代に伝えるか。こういう課題を与えられてわたしにやってくるのは、自分のこれまで生きてきた時間がほぼ、日本で「戦後」と呼ばれる時期に重なっていた、という感慨です。【2】この「戦後」の何がよきもので何が克服されなければならないか、それを明らかにした上で、それにピリオドを打つこと。わたしはいま自分に残された課題を、そんなふうに感じています。
 【3】これまで戦後の道徳は、自分のことだけ考えるな、まず社会のため、世の恵まれない人のために考えよ、と教えてきました。これはある小説家が思い出させてくれたことですが、わたし達戦後生まれの人間が小学生の頃は、どこでも、クラスの後ろに、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」といった標語が掲げられていました。【4】しかし、この二匹の蛇が相手を食べあっているようなオールマイティのモラルの円環えんかんの中で、わたし達は、どこからはじめればいいかわからず、じつは、モラルをへし曲げ、モラルにへし曲げられる、そういうモラルを生きる感覚を、失ってきたと思います。
 【5】昨年(一九九五年)、阪神地方で大震災がありボランティア活動が若い人々を中心に多くの関心を集めました。これまでの私利私欲に代わりこれからは公共性がモラルのバックボーンになるという人もいましたが、わたしはそうは思いませんでした。【6】そうではなく、これまで「私利私欲(自分のため)」と「公共性(他人のため)」はつねに予定調和的一致の外観を見せつつその実二者択一の問題だった(「自分のため」はよくない、とされ、しかし時代はその実、「自分のため」で動き、エコノミック・アニマルを作りました)。【7】それがようやくこの「私利私欲」――ひとりのため――を足場に、ここから出発して「公共性」――みんなのため――にいたるみちすじが見えてきた。ここにポスト戦後の可能性はあるのではないか、わたしはある機会に先の論に反論し、そう書いた記憶があります。
 【8】わたしの考えのいわばバックボーンをなしているのは石橋湛山のリベラリズムの考え方です。なぜ石橋は戦前の時期を軍部の圧力にもめげず彼だけ、というより例外的に反軍国主義の自由主義者として立つことができたのか。【9】彼は他の大正期のリベラリストが∵朝鮮・中国への侵略は人道にもとる、相手に悪いから、よくない、と述べた時、自分は所謂いわゆる「人道」という言葉は嫌いだ、といいました。彼は数字をあげ、相手をパートナーでなく奴隷にしてしまう侵略的植民地政策が何より経済的に、日本の得にならない、といいます。【0】つまり彼は、他の知識人が「相手のため」にならないからこれをやめよう、という時、「自分のため」にならないからこれをやめよう、という言い方で、軍部に抗し、またその実「人道」の本質を救いだす論理を作ったのです。
 では、こういう「自分のため」、「自分がしたいこと」にはじまり、そこから「人のため」にいたるみちすじは、どんなふうに作られうるのでしょうか。
 阪神大震災では、ボランティアに来た若者が仕事を選り好みするというので非難されました。人のためにしている実感できる老人介護などの仕事は喜んでするが、ボランティアらしくないデスク・ワークはいやがるというのです。しかしこの「選り好みするボランティア」、これにわたしは「自分のしたいこと」が「人のため」につながる、という新しい道を模索する、若い人々の無意識の働きを見ます。わたし達はこれに目くじらをたてるべきではない。百年単位で考えれば希望は、このわがままなボランティアにこそ、あるのかも知れないのです。

(加藤典洋「自分から他者へ――二十一世紀の新課題」より)