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課題集 ザクロ3 の山

○自由な題名 / 池新
○ペット / 池新

○子どものころ、私は / 池新
 子どものころ、私は八月六日を息をひそめてすごしていた。一日がすぎるのを、ただじっと部屋の片隅にすわって待っていた。広島の八月六日は、朝八時からの平和記念式典に始まり、八時十五分の黙祷、そして夜の灯籠とうろう流しで終わる。広島市の中心、平和公園と原爆ドームの間に元安川という川がある。その川面に、水を求めて亡くなった犠牲者を弔う灯籠とうろうが流されるのだ。
 私はその灯籠とうろう流しが好きだった。当時は元安川近くの社宅アパートに住んでいたので、夜はよく一人で灯籠とうろうを見に行っていた。慰霊のためではない。橋の上から、ゆらゆら海へ流れでていく光をながめながら、私は安堵のため息をついていたのだ。これでやっと今年も八月六日が終わる、と。
 私は八月六日がいやだった。吐き気がするほどいやだった。「ヒロシマの声を全世界に!」「広島は喪に服しています」と連呼する、したり顔の識者や記者やアナウンサーたちがいやだった。――その「ヒロシマ」っていったい誰のことなんだよ?
 子どもだから、明確に言葉にできていたわけではない。けれども、そう叫びたくなる息苦しさは、八月六日がくるたびに、私の身体のなかを通り過ぎていった。
 おかげで、平和教育には完全に落ちこぼれてしまった。
 教師うけの話ではない。教師うけなら、ばっちりにはほど遠いが、そこそこの評価は得ていたと思う。小学生も五、六年になれば、一応の手練手管は身についている。平和教育のために作文を書かされたりするが、それももうほとんどマニュアル化されていた。おとうさんやおばあさんや近所のおばさんからきいた「八月六日の話」をならべて、その後に「原爆はほんとに悲惨だと思います。戦争は絶対にしてはいけないと思いました」と、つけくわえればOKだ。
 あとは「話」がどれだけリアルかで、教師うけの良し悪しは決まる。リアルであればあるほど、よい作文にされる。あえていえば、実話である必要すらない。
 (中略)
 私の経験がすべてだというつもりは毛頭ない。もっと真面目な平和教育、もっと真剣な小学生もたくさんいただろう。けれども、私∵の経験もまた平和教育の一つの姿である。「原爆はほんとに悲惨だと思います。戦争は絶対にしてはいけないと思いました」という結論以外は許されなかった。そのなかで自由をもとめるとすれば、息苦しさを逃れるとすれば、オーバーな作り話にして全体を茶化すしかないだろう。
 検閲は笑い話を生む。旧ソ連圏の社会主義国でもそうであったし、戦後の広島市でもそうであった。
 「平和教育は虚妄だった」といいたいわけではない。この種の裏話をもってきて、戦後の思想を貶める言説には私自身あきあきしている。戦後の思想が抑圧なら、一個の裏話をもってきて、戦後の思想を根こそぎひっくり返そうとするのも抑圧にほかならない。戦後批判の言説の多くは、救いがたいくらい戦後的である。
 原爆は悲惨だ。どうしようもないくらい悲惨だ。広島で育った人間ならその記録は必ず目にするし、記録できた出来事は最も悲惨な出来事ではない。それを忘れたつもりはない。私がいいたいのはただ一つ。その絶対的な悲惨をもってしても、戦争と平和の意味のすべてを覆いつくすことはできない、ということだけだ。

(佐藤俊樹『〇〇年代の格差ゲーム』)