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課題集 ザクロ3 の山

○自由な題名 / 池新
○計画 / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○マインド・コントロール概念の導入は / 池新
 マインド・コントロール概念の導入は、カルト問題の現場に大きな変化をもたらした。なぜ人がカルトに入信するかを説明する、明確な道具ができたからである。それまでは、これらは親子関係や教育問題などから言及されていた。マインド・コントロール概念はメンバーが自分に起きた出来事を理解する手立てとなり、家族が状況を理解するためにも役立った。これを臨床心理学の言葉に置き換えれば、心理教育ということになるであろう。心理教育とは、症状や行動がどのようなメカニズムで起きているか、それを緩和させたり予防したりするにはどうしたらよいかを教育する介入方法である。この機能は、今後も十分に役立つであろう。
 反面、この説明がいつでも有効性を持つわけではないことも事実である。ありがちなのは「自分はマインド・コントロールされていたのではなく、自分で選んだのだ」という主張である。この場合、マインド・コントロール概念は自身のプライドを傷つけるものとして語られる。ここには、自分には十分なコントロール能力があり、その結果、信じたのであって、他人の思うようにコントロールされていたわけではないという反発のニュアンスが含まれる。実際、個々のケースにおいて、個人がどの程度マインド・コントロールと呼ばれるものの影響下にあったかは、究極的には知る術がない。
 HowモードとWhyモード
 マインド・コントロールという社会心理学的説明で、すべてが解決されるわけでもない。なぜなら、社会心理学が担えるのは事象の説明や解明であり、当事者が自身の経験をどう受け止めるかという臨床的側面は担っていないからである。「自分がマインド・コントロールされていたことは、よくわかった。でも、それが何になるのか」という言葉を当事者から聞くことは、しばしばある。これは、How(いかに)とWhy(なぜ)の相違である。人の持つ知的欲求として「どうして」を知りたい場合と「なぜ」を知りたい場合とがある。これは対象となる事象によっても異なるであろうし、どちらを知ることが満足につながるかが個人のメンタリティによって異なることもある。カルトがもたらす信念は、元来Whyに重点を置くものである。例えば「なぜ社会には、こんなに悪がはびこっているのか」「なぜ私は、こんなに生き辛いのか」などの疑問や∵苦悩に答えるところから、これらの信念は魅力を呈する。よって、これらの集団にはWhyに関心を引き寄せられやすい人が残ることになる。
Whyは形而上的な問いであり、そもそも多くの人が納得する正答を用意する性質のものではない。カルト・メンバーに教義論争を吹き掛けて、出口の見えない堂々巡りに陥るのは、このためである。信じるか信じないかの基準しかないものに、客観的な正当性を求めるのはナンセンスである。したがって、カルト的思考を持った個人が別の視点を見出すのは、刑而上的な問いの前提に自ら疑問を持つときか、思考の方向性がHowのモードに切り替わったときのいずれかであろう。そこで個人がHowを理解すれば、それだけで事足りる場合もある。だが、そもそもWhyに関心を持っていた彼らは、原点に戻る場合も少なくない。それは、哲学的・宗教的問いに対する絶対的な答えを失い、呆然と立ちすくむWhyであることも、過去の個人的経験に対するWhyであることもあるであろう。

(戸田京子「カルト問題における心理学――社会心理学から見えるもの・臨床心理学から見えるもの」による)