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課題集 ザクロ3 の山

○自由な題名 / 池新
○本 / 池新

○過去には、二種類のものが / 池新
 過去には、二種類のものがあるような気がする。そのひとつは年表に書かれている過去であり、つまり知識として私たちが知っているような過去である。それは、もはや体験することのできない過去といってもよく、たとえば鎌倉幕府が、いつ、どのような過程をへて成立したというようなものである。
 ところが過去には、もうひとつ、現在にまで受け継がれてきたものがある。それは棚田の景色のなかにあるものだったり、村祭りの神楽のなかにあるものや、その地域の方言のなかに隠されているものだったりする。ときには森の景色や地域のさまざまな習慣、農民や職人が用いる技のなかに、過去から受け継がれたものを感じとることもあるだろう。
 歴史学と歴史哲学が異なるのは、歴史学が事実として展開した歴史を明らかにしようとするのに対して、歴史哲学は、人間にとって歴史とは何かを課題にしていることである。だから、歴史哲学は人間たちがつくりだしたもっとも古い学問のひとつであった。なぜなら、過去とは一体何なのか、未来とは何なのかを、昔から人々は知りたかったからである。それを知ることによって、自分たちには存在理由があることを人々はみつけだした。すなわち、過去をどのように受け継ぎ、どのような未来へと向かう過程に自分たちは存在しているのかを知ることによって、歴史のなかの自分の役割をみつけだし、安心したのである。あるいはそれがみつけだせないとき、人々は不安のなかに投げ込まれた。
 といっても、今日では、歴史哲学は歴史学の一万分の一も議論されてはいない。それは、近代社会に暮らす人々が、過去は受け継ぐものではなく、乗り越えるものだと考える精神の習慣をもっているからであろう。現実への対応だけが課題であり、過去も未来も思慮の彼方にあるというのが、近代社会での暮らし方である。とともにもうひとつの理由として、私たちの社会が、次第に過去を受け継げなくなってきたこともあげられる。
 過去から受け継がれてきた景色も、言語も、技や習慣や自然も、ときに大きくつくり変えられ、ときに失われていった。いわば、私たちの暮らす世界から、生きている過去を感じさせる場所や時空が∵消えていったのである。
 とすると、なぜそれらは消えていったのであろうか。近代社会、とりわけ二十世紀の社会が、過去を乗り越えていくことを善とする、変化のなかに展開したということも理由のひとつだろう。だが、それだけが原因だったのだろうか。私には、その奥にもうひとつの原因があったような気がする。
 二十世紀とは、人々が広い世界のなかで生きようとした時代であった。狭い世界で生きることを恥と感じる時代といってもよい。だから多くの人々が村や町を捨てて都市に出た。さらに都市を捨てて、世界に出ようとする者もいた。
 といっても、最近の歴史社会学が明らかにしているように、近代以前の社会においても、結構人々は共同体のなかに閉じこもっていたわけではなく、広い世界との結びつきをもっていたのである。だが当時の人々にとっては、どれほど広い世界で生きていたとしても、自分の帰る場所は、共同体や自分の技が生かせる世界にあった。
 つまり、近代になって変わったのはこのような関係である。近代人たちは自分の帰る等身大の世界を捨てた。それは過去が受け継がれていく世界を捨てることでもあった。
 私は、人間には、自分の存在を介して受け継げる歴史の空間的範囲、というものがあるような気がする。だから、その「範囲」であるローカルな世界を克服対象にしたとき、過去を受け継げなくなり、すべてが変わるだけの世界にまきこまれていった。その結果、生きている過去が消え、歴史は単なる過去の出来事、過去の知識になっていった。
 二十世紀の社会は、歴史とは何かという感覚自体を、知らないうちに、変化させていたのである。

(内山節『「里」という思想』より)

○■ / 池新