課題集 ザクロ2 の山
苗
絵
林
丘
○自由な題名
/池
池新
○計画
/池
池新
★清書(せいしょ)
/池
池新
○「日本人は、奈良時代には
/池
池新
【1】「日本人は、奈良時代には梅が好きだった。ところが平安時代から好みが変って、桜を愛するようになった」
と、こんなことを教室で教えられたり、本で読んだりしたことは、ないだろうか。少くとも私はそうだった。こう書いてある本も、いっぱいある。
【2】しかし、そんな事実はない。太古以来、日本人は桜を愛してきたのである。
それでは、どうしてこんな間違いがおこったのか。じつは奈良時代にできた『万葉集』という歌集でいちばんたくさん詠まれた花は、梅である。
だから、みんな、梅が好きだったと思った。
【3】ところが、これは当時の中国好みの貴族趣味によるもので、ある歌人などは梅見に人びとを招集し、みんなでいっせいに四十首ほどの梅の歌を作った。おまけに、後からこの時をしのんで梅の歌を作った人もある。
こうなるといっきょに梅の歌の数がふえてしまう。【4】その数を、歌の性質を吟味しないで数えたから、個人やごく少数の人の好みを、一般の人の好みと勘ちがいしてしまったのである。
反対に、単純に桜の歌を数えると、数は梅に及ばない。しかし桜が民衆的には熱烈に愛されていることがわかる。
【5】また、平安時代になっても、ごく初期のころには、宮中の正殿の前に、梅と橘が植えられていた。それが火事で焼けて、その後桜と橘に変った。そこでまた、人びとは梅から桜へと趣味が移ったと誤解するのだが、最初は万事中国好みの宮廷だったから、梅を植えたのである。【6】やがては素直に、日本趣味にしたがって桜を植えた。
そこで、今後は若い世代にも「日本人はずっと桜を愛してきた」と、言おうではないか。
しかし、そうなると日本人はどうしてこうも、長い間桜を愛しつづけるのだろうという疑問がわく。【7】もう桜は、遺伝子の中に組みこまれてしまった記号だろうか。(中略)
もう桜は、日本人の遺伝子の問題である。
ではどんな遺伝子なのだろう。∵
先ほど『万葉集』について述べたが、その中に、次のような一首がある。
桜花 時は過ぎねど 見る人の 恋の盛りと 今し散るらむ
【8】桜の花はどうして散るのか、作者は推測する。「この桜の花は次のように思って散るのではないか」と。つまり桜は「私を見ている人は、いまが一番私を愛してくれている」と思う。だから桜はしおれるのを待たないで散ろうと思う。
そう、作者は桜の落花を納得した。
【9】人間にいいかえてみると、恋人がいま、一番私を愛してくれている。だから自殺をしよう――そう思うことになる。
そんな人がいたら、盛りの命の死を惜しまない人はいない。
もっと生きつづけて永遠の愛に生きればよかったのに、とやや批判をする人もいるだろう。【0】しかし反面、長くは生きられない命だから、花の盛りに死んでよかった、と賛成する人もいるだろう。
いずれにしても、これらは時間の中で命を見ていることに変りはない。
命は時間の力を、まぬがれがたい。
このもっとも根元的な命の課題を、死からもっとも遠い花の絶頂期に考えることの、衝撃力は強い。
万葉の歌の作者は、桜の花をじっと見ることによって、無意識に体の中にたたえられていた命のうつろいが誘い出され、花の姿がわが命の代行者として映ったのだろう。人間の死の想いを誘い出したものは、花のあまりもの美しさだったことになる。
(中西進の文章による)