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課題集 ザクロ2 の山

★ある特定の動物に(感)/ 池新
 【1】ある特定の動物になる、あるいはその動物の身になったところを想像してみる、ということが文学の世界ではよくあります。漱石の『我輩は猫である』やカフカの『変身』はその代表的な例です。
 これらの作品を読んでいると、このような想像もそれほど突飛な話ではない気がします。【2】その動物になってしまったら、自分の生活はどうなるのか、「どんな感じ」がするのか、想像することは、簡単な気がするでしょう。
 しかし、ほんとうにそうでしょうか。精密に検討してみると、このような想像が意外に困難であり、むしろ不可能に近いことがわかってきます。【3】正確に言うと、「想像すること」自体は簡単なのですが、その妥当性を主張することが無意味なのです。
 哲学者ヘーゲルは、この問題を、もっともきちんと提起した人です。彼は、そのタイトルもずばり「コウモリになったらどんなふうか?」という論文で、その不可能さと無意味さを指摘しています。【4】「コウモリの身になったらどんなふうか、その体験事実はコウモリだけに特異的なもののはずである。あまりにも特異的すぎて、それをわれわれ人間が想像できると主張することすら、ほとんど無意味なのだ」と彼は言います。
 【5】たとえば、自分の腕が網状あみじょうに枝分かれして、その間に膜が張り、空を飛べるようになったら、どんなだろうとか、明け方や夕方の空を飛びながら虫を捕まえられたらとか、一日中洞穴や天井裏に足でつかまって逆さ吊りでいたら、などと想像することは、もちろんできます。【6】目がほとんど見えず、超音波のエコロケーション(反響定位)・システムを使って環境世界を知覚するということも、ある程度想像することは可能だともいえます。
 しかし、そのような想像をしている限り、それは「私がコウモリの身に押し込められたら」という想像でしかありません。【7】飛行機にパイロットが乗り込み操縦するように、コウモリに「私が」乗り込み「操縦する」ことを想像したら、という特異なケースでしかないのです。(中略)
 しかし、いまここで問うているのは、そういうことではありませ∵ん。【8】「コウモリがコウモリとして、コウモリの身で体験する世界とはどのようなものなのか」という問いなのです。その問いに答えようとして想像力を働かす瞬間に、そこには「私」の「ヒト」としての制約が避けがたくはたらいてしまいます。【9】この制約そのものがすでにして、ここで要求されている課題と矛盾します。つまりどうがんばっても、想像されたものは「ヒトの身体」の経験であり、「ヒトの心」の経験でしかないのです。
 まだ納得できないと言われる方のために、もう少しがんばってみましょうか。【0】
 つまり、ヒトとしての「過去」、ヒトとしての「記憶」がじゃまをしているということだろう。それなら、先ほどの「飛行機とパイロット」のような状態でも構わない、強引に(ヒトの来歴をひきずったまま)コウモリに「乗り込んで」、コウモリのセンサー(感覚器)を使い、コウモリの翼を使って飛び続けてみてはどうか。そうすればやがて、コウモリとしての「経験」、コウモリとしての「来歴」ができ、コウモリとしての「自我」さえ(もしそんなものがあるとすれば)芽生えるかもしれない。その分だけコウモリ自身の体験に近いものを体験できるのではないか。
 これはかなりいい線を行っている議論だと思います。しかしこれをさらに徹底するには、人間としての感覚能力や記憶をすべて「失う」、あるいは「消し去る」というところまで推し進めないと完璧ではありません。そうでないと、完全にコウモリとしての「来歴」を獲得したことにならないのです。
 ところがそうなったとすると、そこに存在するのは「私」ではなく、何の変哲もないコウモリが一ぴきいるだけということになりはしないでしょうか。つまり、この思考実験の前後を比べると、もとは「私」と自ら呼んでいたヒトが一人消え、コウモリが一ぴき増えただけという話になるのではないでしょうか。「コウモリになったとしたときの体験をありありと想像できるか」という最初の課題も、どこかで蒸発してしまうことになるのです。
 
(下條信輔『「意識」とは何だろうか』より)