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課題集 ザクロ の山

★もしも「忘れる」という現象が(感)/ 池新
【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。】
 【1】一七九〇年、フランス革命政府議会は、それまでのように人体を尺度にした、地方ごとに違う長さの測り方をやめ、世界中同じ単位で長さを測れるようにしようという決議をした。【2】この時代には、グローバリゼーションの震源地はアメリカではなく、フランス革命政府だったのだ。
 【3】だが同様に普遍指向が強かった古代ギリシャの生んだ哲学人プロタゴラスは、「人間は万物の尺度なり」という、特殊指向こそが普遍的だという、見事な逆説的命題を吐いた。【4】実際、人体のさまざまな部分を規準にした尺度は、十八世紀末までは、まさしく普遍的に、誰もそれを怪しむことなく、国ごと、地方ごとに用いられていたのだ。
 【5】フランスで当時用いられていた、長さを測る単位には、アンパン(片手の指をいっぱいに広げたときの親指の先から小指の先まで)、クーデ(肘から伸ばした中指の先まで)、ピエ(足の意。ヤード・ポンド法のフィート「足」に対応)、【6】プース(足の親指の意。一ピエの十二分の一)、トワーズ(身の丈の意。六ピエ)、ブラス(両腕を伸ばして広げた長さ。五ピエ。日本の尋に対応)等があった。【7】クーデに対応する日本の尺は、呉服尺ごふくじゃく、鯨尺、曲尺かねじゃくでも違うが、やはり前腕の骨の長さから来た尺度だ。【8】布などを測るのに肘を曲げたかたちは測りやすいのか、西アフリカのモシ社会でも、細長い帯状に織った綿布を売るとき、曲げた肘から中指の先までの長さを単位にして測る(カンティーガ、複数でカンティーセという)。【9】日本語で前腕の小指側の骨を尺骨しゃっこつと呼ぶことからも、この測り方と前腕との関連が窺われる。尺骨しゃっこつを指すラテン語の解剖用語はulnaだが、これは古代ローマでの長さの単位でもあった(三七センチに対応するから、日本の呉服尺ごふくじゃくと鯨尺のあいだくらいの長さだ)。【0】尺という漢字は手の親指と中指を開いた象形で、日本ではあただ(掌の下端から中指の先までともいわれる)。∵
 一七九一年、フランス革命政府は学者を招集して、地球の北極点から赤道までの経線の距離の一千万分の一を、世界に共通する長さの単位とすることを決定した。だが実際にこの距離を測ることはできないので、フランス北岸のダンケルクから、地中海に面したスペイン領バルセロナまでを精密な三角測量で測り、両端の地点の緯度から、北極点・赤道間の距離を算出するという方法がとられた。
 この二地点のあいだは山岳地帯が多く、革命直後で政情も不安定であり、測量は困難を極めた。それでも一七九八年に測量を完了し、翌年には白金製のメートル原器が作られた。地方ごとに人間中心で作られていた尺度を、ヒトを離れた「地球」(グローブ)の寸法から割り出すことにしたのだから、これこそ語義通りの「グローバリゼーション」の先駆けというべきだろう。
(中略)
 アメリカ合衆国は一八七五年の国際メートル条約の原加盟国だが、ヤード・ポンド法は「慣習的単位」として禁止されていないどころか、日常生活ではこちらの方が普通に用いられている。しかもアメリカの影響が強い航空・宇宙関係の国際用語では、メートル法を採用している国も、アメリカの「慣習的単位」に合わせざるをえない状態だ。国際線の旅客機でも、高度や距離の表示に、メートルとフィートが併用されていることは、よく知られている。
 現代におけるグローバル化の中心にある米英が、かつてのフランス主導のグローバル化に対して、ローカルな「慣習的単位」に固執している事実を見ても、グローバル対ローカルという関係が、文化外の要素も多分に含む「力関係」の上に成り立っていること、普遍指向と特殊な慣習的価値の尊重という対立も、状況次第、「力関係」の都合次第でいかに変わるものであるかがよく分かる。

(川田順造『もう一つの日本への旅』による)∵
 【1】もしも「忘れる」という現象が境界の融けてしまう現象であるとしたら、この「融けてしまう」という現象の形で現れているものをさらに私は問わなくてはならない。というのも「融けてしまう」というのは、融けて消えてしまうというような意味では決してないからである。
 【2】融けるというのは、一滴のインクが大海のなかに拡散的に融けてなくなるというようなものではない。そうではなくて自分を保ちながら、ある相手と交わり、そのあいだの境界を融かしてしまうあり方のことをここでは意味している。
 【3】これはある交流の形態である。私たちはたしかに大気や大地といつも交流し、交感し合っている。実際私たちの生理現象(呼吸や消化や新陳代謝等)はまさに大気や大地との相互性そのものである。しかし問題は、そういう相互性そのものに目をとめよ! というところにあるのではない。【4】そうではなくて、そういう相互性を私たちは少しも自覚していない、つまりそれを忘れているという現象の方に注目しようというのである。
 生理学や生態学であれば、おそらくその相互性そのものに諸手でとびついて、いかに生体が環境世界と交わり合っているか、得意気に説明しにかかるであろう。【5】素人の私たちは、そんなにもたくさんな関係を自分たちは外界とむすんでいるのかと、説明されるたびに感心することになるだろう。けれども実際のところは、そういう説明を聞いたその十分もたたないうちに、大地の上を二本足で歩き、空気を吸って、つねに新陳代謝していることなどキレイさっぱり忘れて行動しているのである。これが日常の姿である。
 【6】これはどういうことなのかというと、私たちはこの「忘れる」という形で、実際のところキレイさっぱり大気や大地のことを忘れ去っているのではなく、私たちと大気や大地との関係を気にもとまらないほどに融け合わせている、ということだったのである。【7】つまり融け合うという形で相手と交流し合っていたのである。「忘れる」とは「失う」ような関係ではなく、もっと積極的な相手との交流の実現の形だったのである。∵
 私はここで一気に主題の核心を取り上げておこうと思う。【8】それは私たちの存在様式が、その根本において、個体としてではなく交わりとしての存在様式である、ということについてである。つまりある存在があってそれが外界と関係をもっているというのではなく、そもそもはじまりそのものが交わりとしてある、ということについてである。
 【9】この根源としての交わりを「忘れる」ことによって、私たちは逆に、交わっていることよりか、互いに区別し合って境界をもっていること、つまり私たちが個体であることの方をより自覚してきたのである。「覚えている」とはまさに境界を覚えていることであり、覚醒とは、個体であることの自覚なのである。【0】
 根源に交わりがある。いや根源が交わりである。このことを本当に理解することは、今日ではしごく難しいことになってきている。なぜなら私たちは交わりということを思い浮かべる前に、かならず個体を想定してしまうことに慣れているからである。出発は個体ではなく交わりそのものである。このことの理解がしだいにできなくなりつつある。
 「根源としての交わり」と私が呼んだもの、それを私たちのよく知っていることばに言い直せば、生命ということになる、と私は思う。(中略)
 結論をさきにいえば、意識や心理や認識はすべて個体の現象として扱える面があるのに(むろんそれはみかけにすぎないのだが)、生命には個体をこえる拡がりがあるかのように感じられるからである。(中略)
 問題は生命なるものを日常的に問う観点が発見されていないところにあるのではないか。宗教用語や生物-生理学用語で記述される生命以外に、日常用語で記述される生命がまだないのではないか。その辺が最大の問題であるように私には感じられてきた。

 (村瀬学の文章に拠る)