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課題集 ザクロ の山

★劇は、つねに宗教的な(感)/ 池新
【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。】
 【1】ハマーショルドの日記はきわめて特異である。国連事務総長という要職にあった人の、またその職責にひたむきに献身していた人の手になるものでありながら、職務にかかわる記述が一行としてない。【2】それを読んだだけで書き手の職業を言い当てるのは、おそらく不可能だろう。世俗的な属性だけではなく、時間も空間もすべて超越しているかに見える。時折現れる日付さえ、この印象を拭い去りはしない。【3】それはそうだろう。この日記は彼と「神とのかかわり合いに関する白書のようなもの」(友人のレイフ・ベルフラーゲ宛の遺書)なのだから。
 【4】神との対話は透徹した自己省察となる。もし神の視線が自分に照射されたなら明るみに出されるのは何か、それを測り尽くすとでも言うかのように、ハマーショルドは自分の弱さと卑小さを見つめ続けた。【5】「それから目をそらしたなら、たちまち自分の行動の誠実さを脅かすことになるから」(一九五七年四月七日)である。傲慢さや自己憐憫、怯懦や取るに足らぬ自尊心を徹底的に排除した。【6】彼にとって誠実な生の営みとは、存在にまつわるそれらの夾雑物をぎりぎりまで削ぎ落とすことだった。日記中に引用されている次の文章が、そうした彼の思考をあますところなく伝えている。
 【7】大地に重みをかけぬこと。悲愴な口調でさらに高くと叫ぶのは無用である。ただ、これだけでよい。
 ――大地に重みをかけぬこと。(一九五一年・日付不明)
【8】「大地に重みをかけぬこと」とは、言いかえれば自己放棄つまりおのれを空しくすることを意味する。この自己放棄(ないしは自己滅却)という言葉はしばしば日記の中で用いられており、ハマーショルドの思想的中心点の一つだと言ってよい。【9】それは夾雑物に惑わされたり、自分自身にのみ拘泥したりせぬことである。こうして彼は、精神の高みに飛翔する瞬間のために準備を続けた。【0】∵まさに魂の彫琢とでも呼ぶほかはない。
 何がこれほどまでに、彼を魂の彫琢に駆り立てたのだろうか。この人の「憧れ」は何であったのか。ここで私たちは、「よき死のための成熟」という一つの答えに出会う。
「死はおまえから生に捧げる決定的な贈物たるべきであり、生に対する裏切りであってはならない」(一九五一年・日付不明)、そう彼は自分に語りかけている。そこに見られるのは、漠然とした死への恐怖などではなく、躍動する生の営みの果てに積極的に死を迎え入れようという、確固たる姿勢である。みずから命を絶つあきらめでもなければ、他人の生を踏みしだく傲慢さでもない。
 死を「生に対する贈物」にすべく彼が求めてやまなかったのは、「成熟」ということだった。一九五三年四月七日、国連事務総長に就任した日の日記には、くり返しそれへの渇望が書かれている。たとえば、「成熟――なかんずく、子供が仲間と遊んでいるときのように、現在の瞬間に明るく澄んだ無心さで遊び、仲間と心がひとつになりきって影ひとつささぬ境地」。遊びほうける幼子との結びつけが意表を衝くが、この「無心さ」が、実は自己滅却と同じものであると考えるならさほど不思議はない。こうして彼は、国連事務総長という、「世界で最も不可能な仕事」(初代事務総長T・リー)を、気負いもたかぶりもせずに、成熟と自己滅却という自分自身の原則を静かに再確認することだけで始めたのだった。

(最上敏樹『国境なき平和に』による)∵
 【1】劇は、つねに宗教的な秘儀のうちに、その起原を置いている。ギリシア劇においては、そのことが明瞭に看取される。その宗教的背景が、シェイクスピア劇では、一見うしなわれているかのように見えるのだ。(中略)
 【2】もちろん、かれの詩的天才を疑うものはいない。またやや通俗的ではあるが、その作品の劇的効果は否定しえない。それにしても、近代的な合理主義からいえば、かれの作劇術は、あまりにも粗雑にすぎ、実証的な写実主義からいえば、心理的リアリティを欠いている。【3】その精神や思想にいたっては、私たちはシェイクスピアのなかに一個の人間である作者の像をみとめることができない。つまり、かれは近代的な意味における芸術家ではない。ひとびとはいうであろう、ハムレットやリアの主張を読みとることができても、作者の主張はどこにも読みとれない。作者はどこにいるのか、と。
 【4】そういうひとたちに、私は答える。すでにいったように、私は個人の主張などというものに、もはやなんの興味も感じない。個性や心理の、いかに微細な分析も、いまの私にはなんら新鮮な、驚異や喜びを与えない。【5】すべてはわかりきったことだ。それらは季節に開花する路傍の花ほどにも、私の眼を惹かぬであろう。が、作者の思想と現実の分析とがなくして、現代文学はなりたたぬ。問題は、それが路傍の花にどう道を通じているかである。【6】私ばかりではあるまい。私たちが求めるのは博物学でも博物学者でもなく、生きた花なのではないか。シェイクスピアから私たちが受けとるものは、作者の精神でもなければ、主人公たちの主張でもない。【7】シェイクスピアは私たちになにかを与えようとしているのではなく、ひとつの世界に私たちを招き入れようとしているのである。それが、劇というものなのだ。それが、人間の生きかたというものなのだ。
 【8】宗教的な秘儀は、つねにそのことを目的としていた。見ることを許された特定のひとたちを、眼前に「おこなわれていること」の世界に引きずりこむのが秘儀の目的である。いわば路傍の花が私たちを季節のなかに引きずりこむように、奥儀おうぎが啓示されるのである。(中略)【9】サルトルが「嘔吐」のなかで女にいわせている「∵完璧な瞬間」というのも、じつはそういうものを背景にしなければ成りたたぬのである。対象とのあいだに、違和感を見ず、自己も対象も部分のままでありながら、全体に抱きかかえられている瞬間、それを女は欲した。そして失敗した。【0】相手の男が協力しなかったからである。ということは、女は男のまえで、路傍の花にたいするようにすなおに自分の違和感を棄てさることができなかったということだ。のみならず、女は相手にそれを棄てることを求めていたのである。いいかえれば、自分が主役を演じうるように、相手がふるまうことを期待していたのである。もし、個人が、個人の手で全体性を造りあげようとすれば、自分がその中心になり、相手を自分のまえに跪かせるまでは、とどまることを知らぬのである。「嘔吐」のなかの女は、たとえ受身の端役においても、主役を批判し制御しようとしているではないか。
 対象を路傍の花にかぎれば、それは逃避にしかならぬ。が、自然のみを対象とすることも、今日ではすでに逃避である。天災と戦おうとする科学は、私たちの自然にたいする支配慾の現れかもしれぬが、その裏で、もし私たちが自然との調和だけを心がけるとしたなら、やはりそれは逃避であろう。同様に、階級や戦争の悪を根絶しようとする試みも、私たちのあいだにあっては、容易に逃避に転化しうるのだ。

(福田恆存「人間・この劇的なるもの」)