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課題集 ザクロ の山

★分析とは外から見る立場(感)/ 池新
 【1】分析とは外から見る立場です。というよりも、外からものを知る方法として、分析という仕方が生まれたのです。(中略)
 分析的方法の確立者とも言えるデカルトは「研究しようとする問題のおのおのを出来る限りの、そうして、それを最もよく解決するために要求される限りの、部分に分けること」と言っております。【2】そうして、それこそ、対象、あるいは問題の要素と言われるものなのです。その意味で、分析とは要素への還元であるとも言われるのです。
 例えば、水は水素と酸素からなるという場合、水はたしかに水素とか酸素とか私達が名づけるものから成り立っているのでありますが、【3】私達はそのもの自体を知るのではなく、水素とか酸素とか名づけることによって、それを理解するのです。もちろん、それは水素とか酸素とかいう言葉で示されるとは限らず、ドルトンが行ったように、【4】すべての原子を白い丸とか黒い丸とか、中に線を引いた丸とか中心に黒点を書き入れた丸とかいった図形的記号で示すことも出来ますし、さらにOとかCとかNとかHとかいういわゆる化学記号を用いることも出来ます。【5】そうして、科学の記号としては、一切が数学的記号で示されるのが理想でありましょう。が、ともかくいわゆる物質の要素も、分析的認識としては記号的認識以上には出ないのです。もっとも、ここにはさらに次のような疑問が起るかも知れません。【6】それは、水素、酸素などの原子ではまだ最後の要素ではないとしても、その原子を原子核と電子にわけ、さらに核を陽子とか中性子とか中間子とかに分けてゆけば最後には真の物質的要素に到達するのではないかという疑問です。【7】しかし、物質の成分をどんなに小さく分割していっても問題は少しも変りません。というのは、認識の対象が外にある限り、言い換えれば、外からものを眺める限り、やはりそれをとらえるためには、立場と記号が必要であるということには変わりはないからです。【8】むしろ、今述べたような極微の世界では、それを知るのはもはや、日常的な感覚や知性では不十分で、数学的表現のみがそれを正確に表わしうるのであることを思う時、分析的認識は記号的認識であるということは、一層明らかとなるのです。
 【9】以上お話ししましたことによって、分析するとは対象を記号と∵しての要素にわけることであることは明らかになったと思いますが、そこで注意しなければなりませんことは、その分析の要素とは、単にその対象だけにあるものではなく、他の多くのものにある一般的要素であるということです。【0】例えば、水素や酸素は水にだけ含まれているものではなく、アルコールにも、空気の中にもあるのです。ということは、つまり、分析するとは、特殊なものを一般的なもので理解するということなのです。そうして、それは、逆に言えば、もしユニークなもの、唯一独自なものがあるとすれば、そのようなものは、分析出来ないということなのです。――このことは、動きと分析についても言えることで、刻々に変化するものは分析出来ないものなのです。なぜかと言いますと、分析するとは要素つまり、単位に分けることでありますが、単位とは、それが不変なもの変わらないものであればこそ単位と言えるのですが、対象が刻々に変っているとすれば、それらすべてに共通な単位というものは有りえないのです。もし、一刻の休みもなく変わっているものを何らかの記号で示そうとするなら、逆にその記号が次々に変わらなければならない。それは単位が変わるということである。しかし、それでは、それはもはや単位ではありません。
 このように考えてきますと、分析という認識方法は、すべての対象に適用出来るものではないことが明らかとなります。全く個性的な、絶対に他のものによって置き換えられない唯一独自な、オリジナルなものと、刻々に新たになるもの、すなわち正しい意味の「時間」の認識には、分析的方法は適用出来ないのです。

澤瀉久敬おもだかひさゆき「哲学と科学」)