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課題集 グミ3 の山

○自由な題名 / 池新
◎根 / 池新

★一般に人間には / 池新
 一般に人間には対象のなかに自分と同質の生命を感じとる能力があって、この共感によって対象の生命と一体化することを感情移入という。そして犬や花であれ無生物の人形であれ、とくに自分より小さいものに感情を移入したときに、その対象を可愛いと感じるらしい。そういう感情移入が起こるのは対象の形や性質にもよるが、それ以上に人間の心の側の積極的な能力によっている。現に実際には生命のない人形を可愛いと思うのは、明らかに特定の文化に育てられた心の作用の結果だろう。
 ところで、この心の作用はもともとは「可愛さ」とは関係がなく、もっと広く物神崇拝という伝統的な精神の文化のなかで働いていた。巨大な岩石に畏敬を覚えたり、日常の食物や道具を「もったいない」と感じるのは、そういう文化の現れであろう。いうまでもなく巨石も一粒の米も可愛いものではなく、むしろ人が頭を垂れるべき対象であった。それをいえば人形も古代では可愛さの対象ではなく、恐れたり願をかけたりするまじないの道具であった。なまじ人間の形をしているからややこしいが、人形は人間以上に大きい生命の象徴であって、いわば物神崇拝の精神を凝縮して具象化した対象だったようである。
 これにたいして一ぴきの子犬に可愛らしさを感じるのは、これまではもっと直接的な生命の共感によるものと考えられてきた。大きさの点でも子犬は人間を超えた生命の象徴ではなく、逆に人間より弱く小さな生命の持ち主である。それを愛するのは物神崇拝とは別の文化の現れであり、動物愛護と呼ばれる精神の発動だと考えられてきた。いったい動物愛護の感情がいつ生まれたか定かではないが、おそらく十七世紀ごろの近代的な自然観の誕生と何らかの関係があるだろう。ともかくそれは一粒の米をもったいないと思う感情とは異なり、むしろ人間の子供を可愛がる感情に似ていると見なされてきた。そしてたぶん人形が人に可愛がられる対象に変わったのも、こうした文化の歴史的な変化と並行していたはずである。
 だが人形が初めて可愛い存在に変わったとき、それはおそらく人間の想像力の多大な発揮を必要とするものだっただろう。形も単純だったし、もちろん自分の力で動くものではなかった。犬や猫のような愛玩動物とは違って、向こうから人間の感情移入の働きを誘発する存在ではなかった。これには直接的な生命の共感が難しいだけ∵に、人間はより多く努力して実在しない生命を読みとる必要があった。いいかえれば人形を可愛いと感じるためには、人は物神崇拝の文化を失いながら、物神崇拝のために求められるような強い想像力を要求されていたはずである。やがて何百年もの歳月をかけて、人間は少しずつ人形を可愛がる感情を育て、同時に可愛らしさをそそる人形の形状を生みだしてきた。しかしそれでも、近代文化は人形と愛玩動物のあいだに厳然たる区別を置く一方、どんな単純な人形にも生命を感じとる感受性を残してきたのである。
 こう考えると「アイボ」の出現はこの長い区別を攪乱し、物神崇拝と動物愛護の文化の終わりの始まりになるのかもしれない。まるで生きた動物のように反応する機械にたいして、人間にはそこに生命を読みとる強い想像力はいらない。可愛らしさは対象のほうからかってにやってきて、人間の受け身の心を直接にとらえてくれる。これを続けて行けば感情移入の能力は萎縮して、やがて動かない人形は可愛いものではなくなるかもしれない。同時に愛玩動物の可愛らしさも生物の特権的な特徴ではなくなり、少なくとも感情の次元で動物と機械との区別が弱くなることが考えられるのである。
 すでに科学の世界では物神崇拝的な生命観は完全に否定され、生物と無生物の距離さえ大きく縮まろうとしている。法律の世界でも動物と物体の区別は捨てられ、飼い犬を殺しても器物損壊としてしか罰せられない。そこへまったく思いがけない方向から、いま感情文化の世界にも同じ流れの変化が迫っているのかもしれないのである。

(山崎正和「物神崇拝と動物愛護ののちに」による)