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課題集 グミ3 の山

○自由な題名 / 池新
◎太陽 / 池新

★ゲーテがその色彩論を / 池新
 ゲーテがその色彩論を活発に展開したのは、ニュートンの物理学的な光学に立った色彩理論をどうしても認め難いと思ったからであった。彼は述べている。ニュートンの光学にもとづく色彩理論は、この一世紀以来世の中に君臨してきているが、それは屈折光線というきわめて限られた事象を基礎にして築かれているにすぎない。そのために、光と色について、それ以外の重要な現象はほとんど無視されることになってしまった。
 それに対して自分は――とゲーテは続ける――、光と、光に対立する闇とが両々相まって初めて色彩を生み出すのだと言いたい。ニュートンの犯した誤りは、彼が行なった実験そのもののうちに見出される。プリズムを通した白色光が色彩を生み出すためには実は「境界」が必要なことをニュートンは見落としたからである、と。このゲーテの批判そのものは、ニュートンの実験を自分に引き寄せて解釈しただけの空振りに終わった。
 だが、空振りによってゲーテの考え方は、まったく無意味に終わったわけではない。彼はニュートンの光学理論が見落としていた色彩のもう一つの側面をとらえていたからである。ゲーテが見たのは人間経験としての色彩現象であり、その代表的なものは「補色作用」である。彼の挙げている例でいえば、白壁に黄色の紙片を貼り付けてじっと見つめていると、それは紫色に見えてくる。また、夕焼けに照らされてブロッケン山の雪が赤みがかった黄色い光を放つとき、その雪の影の部分は青紫色を呈するのである。
 そのような補色作用をもっと端的に示す実験装置としては、次のようなものがある。すなわち、ここに、交差する白色光と赤色光の二つの光源を用意する。そして、それらの光の交差した前に片手をかざして、壁面に映った影を見てみると、その影の一つは「赤色」に、もう一つはその補色の「青緑色」に見えるのである。
 この場合、なぜそこに、まるで気配さえもない青緑などという色が出てくるのであろうか。このような事実は、色は一定に波長から構成されているというニュートン的な考え方からは、どうやっても説明することができない。たとえ、波長についての計測装置を使っ∵ていくらその影の部分の光の構成を調べてみても、青や緑と呼ばれる波長は少しもそこに検出されないからである。興味深いのは、W・ハイゼンベルクのような現代物理学の革新者が、彼自身の見地から、近代科学の知を超えたゲーテ的な色彩論を高く評価していたことである。
 コンピュータの性能としての表現可能な色数は、いうまでもなくニュートンの光学理論の発展に基づいて技術的に可能になったものである。しかし現在、人間経験としての色を表わそうとするときには、それを、ゲーテ的な色彩の考え方によって補わねばならないだろう。実際の色の感知というのは最終的には人間の色彩経験であって、単に客観的な現象ではないからである。
(中略)
 コンピュータによって一六七〇万の色が発色できるようになったということは、一見それだけ色が高度に客観化されたようにみえるが、果たしてそうだろうか。かつて、某大家電メーカーの研究所の上級研究員の人から、興味深い話を聞いたことがある。それは、日本から世界中の諸国にテレビの受像機を輸出する際に、どのように色彩の調整を行なうかというと、その国の大多数の人々の皮膚の色がもっとも美しく見えるように、調整して送り出すのだということであった。だから、欧米などのテレビでは、日本人の顔がひどく黄色っぽく見えることになるのである。
 色というのは人間の知にとって「最後の秘境」であるとの私の確信はいよいよ強まっている。

(中村雄二郎「色という最後の秘境」一九九六年による)