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課題集 グミ3 の山

○自由な題名 / 池新
◎窓 / 池新

★彼は地方公務員だ。 / 池新
 彼は地方公務員だ。
 東京郊外の市役所の健康保健課という、傍目には地味な職場で働いている。しかしだれかから職業を尋ねられた場合、彼はいたずらっぽい笑顔を浮かべながらこう答えることにしている。
「ボクシングのレフェリーです」
 相手が意外そうな顔をして何か尋ねたそうにしたら、
「本業は公務員なんですけどね」
 とつけ加える。ボクシングのレフェリーだけで飯を食っている人間は、日本に存在しない。たとえ世界タイトルマッチのレフェリーをつとめたとしても、ギャラは高が知れている。ましてや彼のように初心者で、四回戦のレフェリーしかつとめたことがない者は、ほとんどがノーギャラである。ようするにボクシング好きがこうじて、趣味としてレフェリーを選んだ者ばかりなのだ。
 もちろん彼も、そんなボクシング好きの一人だった。(中略)
 大学を出て、公務員としての地味な毎日を一年ほど送ったころになって、彼は唐突にボクシングに目覚めた。きっかけは、高校時代の友人がプロボクシングのライセンスを取得し、遅いデビューを飾ったことだった。応援にかり出されて、初めて訪れた後楽園ホールの客席で、彼は今までに味わったことのない興奮を覚えた。もちろん今までにテレビで観たことは何度かあったが、生の試合は全く別物だった。生身の人間と人間が、地位でもなく名誉でもなく金でもなく、もっと崇高な何かのために殴り合う。リングに上がったボクサーは、ただ相手を倒すためだけにそこに生きている。その圧倒的な存在感は、曖昧きわまりない人生を歩んできてしまった彼にとって、まさに驚きだった。
 以来、彼は暇を見つけては後楽園ホールへ通うようになった。別にタイトルマッチでなくとも、四回戦でも六回戦でもいい。ボクサーのそばにいて、同じ空気を吸い、同じ興奮を分かち合うことが彼にとっては大きな喜びだった。(中略)∵
 初めて彼がリングに上がったのは、四月半ば――桜が散ったころだった。(中略)
 試合に先立って彼は二人のボクサーをリング中央へ呼び、マニュアル通りに試合上の注意を与えた。声が震えているのが、自分でも分かった。ゴングの前に客席を見回すと、四回戦にしては意外なほど客が入っていた。デビュー戦同士だから、応援の友人知人たちをできるだけかき集めたのだろう。全員が、二人のボクサーを食い入るように見つめるばかりで、レフェリーの彼に気を止める者は一人もいなかった。しかし彼は満足だった。
 試合は白熱した内容だった。二人の選手は技術こそなかったが、負けまいとする気迫は世界ランカーに劣らないものがあった。玉砕覚悟のやみくもなパンチの応酬で、三回半ばには双方とも血まみれになった。ブレイクを分けるために割って入るたびに、彼の白いシャツにも血糊がついた。
 三人ともに必死だった。
 結局、四回に赤コーナーの選手が放ったまぐれ当たりのアッパーで、青コーナーの選手はマットに沈んだ。壮絶な試合だった。赤コーナーに近い客席からは、潮騒のような歓声が上がった。その歓声は、すべて勝者のものだ。レフェリーの彼のために拍手をおくる者はだれもいない。しかし彼は、今までに感じた経験のない深い充実感に浸ることができた。
「俺はリングに立った」
 控え室で血のついたシャツを脱ぎながら、彼はつぶやいた。
「俺は闘った」
 相手はいないけれど、お前は勝った。よくやった。よくやった。そう自分に言い聞かせている内に、彼は涙がこぼれてくるのを抑えられなくなった。
 二十数年間の人生で、彼は生まれて初めて何ものかに勝つ喜びを、ひそかにかみしめていた。
(原田宗典「レフェリーの勝利」、『人の短編集』)