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課題集 グミ3 の山

○自由な題名 / 池新
◎土 / 池新

★グローバリゼーションが / 池新
 グローバリゼーションが、少数の新しい「言葉をもつリテレイトな」人々と、多数の新しい「言葉をもたないヴォイスレスな」人々を作り出し、このところ数年来、日本では「勝ち組」と「負け組」の分化がメディアをにぎわせている。
 同じことが、アフガニスタンにも、中国にも、メキシコにも、東欧にも、エジプトにも、いえるに違いない。グローバリゼーションは、これを「言葉があること」のほうから見ると、光を広める動きだが、「言葉がないこと」のほうから見れば、世界に闇を広げる動きなのである。
 なぜ内部にゆがみを蔵した日本発の「小さなもの」――「かわいい」文化――が、いま米国発の「小さなもの」――スヌーピーであり、ミッキーマウスであるもの――の優位を揺るがしつつあるのか。
 日本のGNPならぬ「グロス・ナショナル・クール(Gross National Cool 国内ソフト・パワー総生産)」がもつソフト・パワーとしての潜在力について煥発力ある論文を書いたダグラス・マッグレイは、現在のジャパニーズ・クールとアメリカン・クールの争闘において肝腎な要素は、「文化的な正確さ」でもなければ「正統的なアメリカ起源」でもないと述べ、Tシャツに銘打たれる「Harbard(正しくはHarvard)University」のロゴやポテトサラダのピザのような、本国人から見れば首をかしげるようなうさんくさいフェイクなアメリカ文化の日本での横行に注意を喚起している。どのくらい自覚的かはわからないが、彼の直観は正鵠を射ている。ジャパニーズ・クールの本質は、それがうさんくさいアメリカもどきであること、偽物の欧米化であること、偽物のグローバル・スタンダードであること、その意味で「言葉がないこと/言葉をもたないこと」の表現であることにこそある。新しい独創的な対抗原理がそこにあるのではない。戦後日本は占領期以来、「アメリカもどき」の「追従にどこまでも似た抵抗」、「抵抗にどこまでも似た追従」を通じ、政治方面での壊滅的な低迷に並行しつつ、「言葉をもたないこと」の文化表現の力を養ってきた。その結果、半世紀の経験をへて、いま自分も予期∵しなかった形で、その副産物の勃興を見ている。あの、『古事記』に描かれた口のない海鼠こそ、ハローキティの先祖なのではないだろうか。
 これに対し、さほど準備のない――本国でなら「言葉をもたない」階層に分類される――個人でも、アメリカ人でさえあれば、「光の言葉」の母国語使用者(ネイティブ・スピーカー)として、日本で、現在隆盛の語学学校の英会話の教師になれてしまう。こうした挿話が示すように、いまやグローバリゼーションの波の中で、ミッキーマウス、スヌーピーをはじめとする欧米の文化産物は、すべて米国の「本国」以外では、正統的な「言葉をもつこと」の使節として受け取られ、「光の言葉」の後光を身に帯びざるをえない。ミッキーマウスが文化的に劣位な鼠であることに明らかなように、それらはかつて本国において劣位の「言葉をもたないこと」の表現であり、そうであることで、本国同様、他の国においても、人々に訴えかける力をもっていたのだが、いまや、グローバリゼーションの波に洗われるさまざまな国で、ミッキーマウスもスヌーピーも、グローバリゼーションの本国たるアメリカからの到来者、いわば文化使節として正統的かつ優位な神と感じられる。その傍らにフェイクな精霊たるハローキティやセーラームーンを置いてみよう。そうすれば、ミッキー、スヌーピーは立派でお偉い「識字者」であり、よそゆきであり、時には少々、抑圧的、さらにはマッチョにすら、感じられる。彼らはいまや、気楽な友達であるには、ほんの少し抑圧的なのである。(中略)
 マイクロソフト社は否定しているが、かつて同社のビル・ゲイツ会長がハローキティの権利を六千億円で買い取りたいと申し入れたという挿話は、喚起的である。彼が、スヌーピーではなく、ハローキティに目をつけたのは、そこに、よりマイクロソフトにはないものがあると感じたからだろう。そこに彼は何を見たのか。筆者の考えをいえば、ビル・ゲイツの中で、口をもたないハローキティは、未知の「言葉がないこと」の力を、体現している。
(加藤典洋「グッバイ・ゴジラ、ハロー・キティ」による)