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課題集 グミ3 の山

○自由な題名 / 池新
◎風 / 池新

★のみならずシドニーの / 池新
 のみならずシドニーのゲームを見て感じることだが、今後スポーツがさらに国威発揚と無縁になるのは、どんな政治の意図も及ばない時代の趨勢のように思われる。現代では、国家が国威発揚をめざせばめざすほど、その国家の意味が変質するという逆説が働くらしいのである。たまたま目に触れた野球の試合のなかで、オランダ・チームのほとんど全員が黒褐色の肌をしていたのが、示唆深かった。この選手たちはもちろんオランダ国民であろうが、歴史的な背景を考えればそんなに古い国民であるはずがない。彼らが移民の初代か二代目かは知らないが、強いチームを送ろうとすれば、国家はそういう新しい国民に頼るほかはない。伝統的な多民族国家はいわずもがな、この日本ですら今回は二人の中国生まれの選手の力を借りているのである。(中略)
 そう思ってさらに根本を振り返ると、もともと近代スポーツが工業化と国民国家の時代に生まれ、長らく国の政治や経済の力の象徴と見なされてきたことが不思議であった。さらにいえば、スポーツが現実的な力や効率を連想させ、進歩や拡大のイメージと結びつけられていたことが異様であった。なぜなら、スポーツはその本質において、むしろ人間の総合的能力を制限することのうえに成り立つ技芸だからである。それはとりわけ近代において、技術は深く磨くと現実的な効用を失うという逆説のうえに立っている。早い話が人間が走る能力を特化して訓練すると、その壊れもののような俊足は日常の役には立たないものに変質する。そもそも人間が足で走ろうと考えること自体、この自動車文明の時代に、現実的な効用を無視することを意味しているはずである。
 けだし国民国家の近代化は、いわば目的のために手段を選ばぬ精神によって進められてきた。中核となる工業化そのものが目的至上主義であって成果のためには刻々に手段を取り替えることによって成長を続けてきた。人間の能力を含めて、あらゆる手段は陳腐化されるのが宿命となり、むしろその陳腐化によって発展が保証されるのが工業化であった。人間の身体能力についても、重用される側面があわただしく変わるばかりか、全体として軽視されるのが科学∵技術の歴史であった。そしてほとんど奇跡のようにこの歴史と並行してそれに逆らって育ってきたのがスポーツなのである。それぞれの個人が特定の身体能力に固執し、それだけを磨きぬくことで、本来は手段であるものを目的にしてしまう文化である。スポーツはあたかも工業の精神をあざ笑うように、あえてそれにとって無用の能力を極限までのばしてきた。
 このスポーツの文明史的な意味は、ちょうど芸術の場合と同じく、時代精神の欠陥を癒す補完物としてしか考えられない。極端な効用と効率の時代に、それに抵抗して文明の健全さを保つ緩衝材としての意味しか考えられない。だとすればますます奇怪なのは、そのスポーツの強さが国力の表現として錯覚され、愛国的な熱狂の対象とされてきたことである。どう見ても過去百年、人類は国家観の狐に憑かれていたのであり、集団ヒステリアの悪夢にうなされていたのにちがいない。ようやくその悪夢が醒めはてた今、スポーツと国家は初めて健全な関係を結びつつあるように見える。オリンピックは今も各国の国旗のもとに闘われているが、その国旗はもはやあの神聖で宿命的な国家のイメージを表していないからである。
 オランダの黒人選手や中国生まれの日本選手にとって、国家はもはや神話や文化伝統によって結ばれた共同体ではない。それは法と制度によって彼らの権利を守り、よい生活とスポーツの環境を保証する合理的な機関である。また世界の選手が闘う柔道競技は、もはや生まれつきによってしか理解できない民族文化ではない。それをなお現在の日本国民が誇りうるとすれば、この文化が特殊日本的であるからではなく、逆にここまで普及しうる普遍性を持っていたからである。国の強さは今や閉じる力ではなく外に開く力によって、開いても壊れない強靭さによって評価される時代を迎えている。およばずながら日本もその道を歩み、一歩を進めている姿を見て喜ぶ私は、しかしやはり国を愛しているのだろう。

(山崎正和『世紀を読む』による)