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課題集 グミ3 の山

○自由な題名 / 池新
◎石 / 池新
★学問の意義、人間にとっての幸福 / 池新

○近代から現代にかけての社会は / 池新
 近代から現代にかけての社会は、老人にとってけっして生きやすい場ではない。なぜそうなったかを考えると、わたしたちは進歩とか効率性といった近代社会の原理にぶつかることになる。
 資本主義的な生産様式が全社会に浸透していく近代世界にあっては、生産性の進歩と向上が生産現場においてだけでなく、生活のあらゆる場面で求められるようになる。スポーツがいい例だ。スポーツはそれ自体がなにかを産みだす生産活動ではなく、体のこわばりをほぐし、合わせて精神の緊張をもほぐす気晴らしの遊びなのだが、近代の原理がそこにも浸透し、その結果、勝敗にこだわって真剣に訓練を積み、技術的にも体力的にも進歩・向上をめざすことが大切だと考えられるようになる。金もうけを目的とするプロスポーツならともかく、競技を楽しみつつ体の調子を整え、健康を維持するのが目的の遊戯スポーツまでが、体に無理を強いても勝つことを求めるものに変質しかねない。勝つか負けるかと、楽しいかどうかとはそう簡単に結びつくものではないのに、勝ち負けこそが楽しさの基準だとする錯覚が、社会的な力をもってくる。勝つことを最優先し、勝つために効率性・合理性を追求することがスポーツを楽しむことだ、と、競技者自身が思いこむようになるのだ。
 進歩や向上を求めることは、ある限られた場では大いに意味のあることだが、そうした気運が社会全体に広がりを見せるようになったとき、そんな社会が老人にとって住みよい場であるはずがない。老人の暮らしとは、とくに体を動かすという場面において、進歩・向上を期待できず、むしろ停滞と退行を余儀なくされるような暮らしなのだから。
(中略)
 老いをめぐる関係性の変化としては、大きく二つのことが考えられる。
 一つは老人相互の関係性の変化だ。前線を退いた人は、前線にいたときに組みこまれていた人間関係を外れていったんは孤立する。が、そうした人びとの数がふえれば、たがいに接触する機会も多くなる。仕事を媒介にするのではなく、遊びや楽しみを媒介にした関係が生じ、競争や効率にとらわれないつきあいのなかで、人柄や経験の触れ合いが生じる。近所の道端で老人同士のそういう交流を∵よく見かけるし、やや遠く、奥武蔵や秩父の山登りや、都心の美術館や社会人向け大学講座やカルチャーセンターなどで、いまを楽しみつつ、たがいの来しかたを確かめ合う老人たちのすがたをしばしば目にする。ながめるこちらをもほっとさせるような安らぎが、そこにはある。
 人間関係の変化として、もう一つ、老年と若年の関係性の変化が考えられる。進歩・競争・効率を至上命令とする仕事の論理は、働きの度合によって人を序列化する傾向が強く、勢い、働きの少ない老人は軽視されるが、仕事の論理は社会を覆いつくすものではなく、覆いつくせば社会がかえって不幸になることにわたしたちは気づきはじめている。不幸の自覚が深まれば、老人の寂寥感は、まだ老いには至らない人びとにも寂寥感として受けとめられ、寂寥感の克服が社会全体の課題とならずにはいない。個人がさまざまな他人とともに社会をなして生きていくということは、他人の寂寥感をなにほどか自分のものとして感じることをぬきにはありえず、大きくいえば、人間はそのようにして共同の歴史を作りあげてきたのだ。
 じいさんやばあさんの炉端の昔話も、長屋のご隠居さんの悠々自適の生活も、それぞれに人間の共同の歴史の一齣なのだ。社会の近代化と家庭の核家族化はいまだ進行途上にあるから、炉端の昔話や長屋のご隠居さんの再生は期待できないが、近代化や核家族化が老人の孤立と寂寥感を強めるのではなく、老若の新しい経験の交流を促す方向へとむかう可能性は十分にある。そして、課題が課題として提示されたとき、課題克服の可能性をつねに追求してきたのがこれまでの人間の歴史だったし、今後もそれは変わらないと考えてよい。老若の交流が多くの場面で自然に、さりげなく、おこなわれるようになったとき、その社会は老いを楽しめる社会といえるだろう。

(長谷川宏『高校生のための哲学入門』による)