昨日582 今日758 合計160583
課題集 ギンナン3 の山

○自由な題名 / 池新


○概念化された風景のなかで / 池新
 概念化された風景のなかで若者たちはみずからの身体を概念化する。規格化されたスピードで移動することに慣れた若者たちは、老人のスピードで移動する人びとが規格外の存在であることにえられなくなるであろう。なぜ世の中はかれらに正常な機能をもたせるような装置を提供しているのに、それを使わないのか、と。
 概念化した風景のなかで生きる人びとは、概念化された環境に適応していくから、そのような概念化した環境に適応する身体をもつようになる。ある理念のもとでつくられた風景に対して理念としての身体が設定され、それに適応することが徹底的に求められるからである。
 空間風景のなかの身体は、こうして設定された空間の意味に対応するように訓練されていく。それは空間の意味を設定した設計者に要求されるかたちでの自己調整であり、自己訓練である。そこでは、身体は空間の価値に対応するように形成され、あるいは整形されていく。
 風景の概念化と風景のなかで生きる身体の概念化とは相伴って進むであろう。概念風景のなかでひとは身体を概念化することで自由になる。たとえば、人びとは高齢者のようにゆっくりと歩くことから「解放される」。高齢者の身体は、健康な大人の身体の振る舞いの風景のなかに吸収されていくのである。
 解放としての自由は都市設計の重要な課題であり、そこには、コンセプトのモチーフ、テーマ、ストーリー性といったものが重視される。これらは高次のコンセプトとして機能し、都市全体の特質を決定していく。高次のコンセプトが共有されると、世界の都市の類似化が生じるであろう。風景のグローバル化がこれによって推し進められる。
 概念風景のなかの概念身体は、環境に適応することによって、もともと自然と人間の間にあった境界を除去する機能をもつであろう。この除去は、風景と身体の間に存在する境界的不透明性の除去といってもよい。一定の意味空間はそのような空間の用途に沿った使用を要求し、そしてそれに見合う身体的振る舞いだけを許容す∵る。こうして空間と身体の境界にある不透明性は除去される。不透明な身体的振る舞いは、空間の価値にとって望ましくないものとされるのであり、そこに環境と身体との緊張関係が生じる。自己はそのような空間の意味に汲みつくされることによって、空間の提供する快楽を享受することができるが、それと同時に、そのような要求への拒絶の自由を剥奪されるであろう。自由とは本来価値の強制のとどかない不透明な領域に成立するが、この空間の価値は身体の不透明性に対する不寛容をその大きな特色とする。
 不寛容性によって、整形の緊張がひとに多くのストレスを加えるであろう。このストレスを解消するための空間と時間が必要なのだが、実は、このストレスの存在は、もともと風景の概念化によって引き起こされたものである。つまり、一定の価値概念による空間の意味づけによって身体が概念化されたための緊張である。空間の概念化は、一定概念によるゾーニングであり、このゾーニングは、無意味空間を排除する。いままで意味づけのなかった空間に意味とゾーニングを与えるので、身体は、この意味のなかで行動しなければならない。だから緊張が生じるのである。与えられた意味空間で要求される行為を遂行することで、ひとは緊張のなかを生きる。

桑子くわこ敏雄『風景のなかの環境哲学』より)

○■ / 池新