昨日582 今日1301 合計161126
課題集 ギンナン3 の山

○自由な題名 / 池新


○歴史のプロセスとは / 池新
 歴史のプロセスとは決して直線を延ばすように進歩するものではない。ジグザグな進展でもない。それはいくつかの大きな経験や変動を経ながら先に進むものでもなく、すでに堆積されている経験の上に新たなものが積み重なっていくプロセスである。(中略)
 そして、ひとたび歴史の重層性ということを認めたならば、次のことに思い至らざるをえない。それは、われわれは、結局、常にある特定の社会の中にあって、ある特定の文化の様式のもとでしか歴史を引き継ぐことができないということだ。普遍主義の旗印のもとに押し寄せてくる西欧近代なるものと、われわれは調子を合わせることはできるし、実際そうしてきたつもりでもあるが、西欧的な意味で西欧近代を我がものとすることは、われわれには決してできない。
 むろん、このような見方を批判する人は少なくない。「西欧的」近代などというものはない。「近代」は「近代」であって、普遍的なものである。「西欧」にこだわる理由はどこにもない、そもそも西欧と日本を対立させるのが間違いなのだ、と。
 だが私には、この普遍主義は決定的に誤っているように思われる。歴史が重層的だとするなら、われわれは決して近代という用語によって一括りにできるような普遍的世界へと収斂することなどありえないはずである。われわれは、どこまで行っても近代と前近代の混融こんゆうを生きるほかない。そしてこの混融こんゆうのあり方は、「ナショナルなもの」という文脈に依存するほかない。
 近代的普遍主義者は、そもそも「ナショナルなもの」を持ち出すことは、排他的な国家主義へと対抗する第一歩であり、危険思想への導入口だと見なす。近代という普遍的文明によって初めて、平和的に人々は共存できると見なす。しかし、これも間違っている。普遍主義が排他的で暴力的であることはいくらでもありうる。普遍主義は、普遍であると自認する者の権利以外の一切を認めず、普遍性からの変異を排除しようとするものだからである。特殊なもの、∵個別的なものを排除した上での普遍主義は、普遍という名の暴力の勝利に過ぎない。
 これに対して、「ナショナルなもの」に立脚する立場、すなわちここで言う「シヴィック・ナショナリズム」は、「ナショナルなもの」であるがゆえにこそ、他の特性を尊重する。むろん「ナショナリズム」が「ウルトラ・ナショナリズム」と化し暴走する危険に対して私も無自覚なわけではない。しかし、他者がなければ自己意識、つまりナショナリズムなど存在しないのである。他者を抹殺すればナショナリズムも無意味となるのだ。したがって、真に危険なのはむしろ普遍主義のほうであるように思う。それはすべてを同質化し、他者を排除しようとする。少なくとも「ナショナリズム」の危険性は常に唱えられ、いわばチェックされているのに対して、「普遍主義」の危険性はほとんど認知されていないであろう。だから、他者を契機とした自己意識、自己認識としての「シヴィック・ナショナリズム」こそが、グローバルな時代に要請されるのである。
 今日、超近代文明(hypermodern civilization)としてのグローバルな普遍化が性急に世界を覆いつつある。同時に、それに対する展望のない反抗としての過激派によるテロが暴発している。そして、その両者にはさまれて、世界中の各地で「われわれ」の再定義が模索されている。その中心に「ナショナルなもの」の再構成という集団的なアイデンティティの模索がある。私には、イスラム過激派武装勢力によるテロリズムに与することができないのと同時に、西欧近代の性急な普遍化にも安易に与するべきではないと思われる。そして、今日、この普遍化を推し進めるのがアメリカだとすれば、アメリカニズムに対してどのように距離を置くか、ということこそが、われわれにとっての最大の課題と言わざるをえないであろう。

(佐伯啓思『倫理としてのナショナリズム』NTT出版)

○■ / 池新