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課題集 ギンナン3 の山

○自由な題名 / 池新


○論文「忠誠と反逆」(一九六〇年二月)の / 池新
 論文「忠誠と反逆」(一九六〇年二月)のころから丸山眞男まさおは、理想の姿としての「主体」よりも、あるがままの個人としての「自我」に視線を定めて、議論を展開するようになってゆく。そして、その自我は内部に亀裂を抱え、不安定に揺れ動いている。安東仁兵衛との対談「梅本克己の思い出」(一九七九年)で丸山は、みずからが立脚する「西欧的な個人主義」が、実は深い困難にぶつかることを告白するのである。

 伝統的個人主義をいわゆる原子的な個人主義として見れば、全ての人間に備わっている理性というようなものによってくくられてしまう。ですから、啓蒙の個人主義をつきつめていくと類的人間になるんですよ。そういう普遍的理性によってくくられない個、ギリギリの、世界に同じ人間は二人といないという個性の自由は、むしろ、啓蒙的個人主義に抵抗したロマン主義が依拠した「個」です。この西欧的な個人主義に内在する矛盾の問題はぼく自身も解決がつかない。

(中略)
 いまや、政治体制の側も、それに対する批判者の側も、みずからの正当性を支える確固とした「原理」をもたず、それぞれに曖昧な一体感のうちにただよっている。それは、人々の自我が、(内なる相剋の意識)を失い、陰影を欠く平板なものになった結果でもあろう。丸山は、明治後期からの日本のこの状況に対して、むしろ内部の分裂こそが、自我に輪郭と活動力を与えていた、武士たちの精神を想起する。そうした歴史の描きなおしを通じて、現代人が直面している難問を、新たに照らしだした。
 さらに、現代の情報洪水の中で、目に見えない画一化の作用にさらされながら、みずからの「個」としての独自性を保ち、しかも欲望に押し流されずに、適切な「政治的判断」を働かせることは、いかにすれば可能になるのだろうか。そこで丸山がぎりぎりの期待を∵かけるのは、「他者感覚」にほかならない。一九六一年の論文「現代における人間と政治」では、チャールズ・チャップリンの映画『独裁者』(一九四〇年)にある、飛行機にのり雲海の中をゆく主人公が、機体が上下さかさまになっているのに気づかない場面をとりあげて、実は人間がこうした「逆さの世界」に住んでいるのがいまや常態であり、現代とは「人間と社会との関係そのものが根本的に倒錯している時代」にほかならないと述べている。つまり、国家やさまざまな組織の「内側」に属し、その内部だけに浸透するイデオロギーや「常識」によって、世界を見る目がはじめから一定の「イメージ」の眼鏡をかぶせられているのである。
 では、そのイメージによる境界線をこえ、「外側」の住人の声にも耳を傾けられるようになるには、どうすればいいのか。だれもが自分の属する世界の外に出て、人類全体の共通空間で語り合えるという理想論は、すでに「逆さの世界」に生きていることを前提とする丸山のとるところではない。人間に残されている道は、あくまでも「内側」にとどまっていることを自覚しながら、外との「境界」の上に立ちつづけることである。――「境界に住むことの意味は、内側の住人と「実感」をわかち合いながら、しかも不断に「外」との交通を保ち、内側のイメージの自己累積による固定化をたえず積極的につきくずすことにある」。
 こうして、「他者をあくまで他者としながら、しかも他者をその他在において理解する」ことを、丸山は呼びかける。現にある自分から理想の「主体」へと飛翔するのではなく、「内側」に身をおきながら、少しでも「外」へと視線をのばし、コミュニケーションを続けていくこと。この現実の自我による、「他者」にむけた水平次元での営みが、重要な鍵になる。

(苅部直『丸山眞男まさお−リベラリストの肖像』による)

○■ / 池新