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課題集 ギンナン3 の山

○自由な題名 / 池新
○ゼネラリストとスペシャリスト / 池新

○最近、本の真贋、テクストの / 池新
 最近、本の真贋、テクストの真実と虚偽の問題について、考えることがある。
 これは一つには、還暦も近づいてきて、人生が思いのほか早く過ぎ去ることに遅まきながら気づき始め、それに比べて読むべきテクストの数が依然、あまりに多いことを託ちだしたからにほかならない。
 試みに数えてみる。あと、何冊の本が読めるのだろうか、と。仮に平均寿命まで、目も頭も気力もそれほど衰えないで読み続けられたとしても、読書という名に値する読み方で読める本の数は、千冊くらいに過ぎないのではないだろうか。確かに専門の分野で研究史を概観し纏めるときは、一日に数冊のペースで大意を取る速読をしたり、勤めている大学で卒論・修論・博論の審査の時期にも集中的に大量に読む。また、トイレにおいてある本を、毎日少しずつ読み進む悪習もある。しかしそれらは読書と呼べるだろうか。それらを除外して、味わいながら行間に入り込んで読む本の数を指折ってみると、一週間で一冊、つまり一年で五十冊、二十年でたった千冊といった数字が浮かんでくる。『聖書』も一冊、『純粋理性批判』も一冊というふうに数えてならすならば、この数字は必ずしも控えめに過ぎるとも思えないのである。この伝でいくと、学に志す十有五歳から耳順う六十歳までに読める本の数も、二千冊を少し超える程度に過ぎない。よく「万巻の書を読破した碩学」といった言い方をするけれど、ものを考えない人ほどたくさん本を読むというショーペンハウアーの逆説も考えあわせると、ほとんど無意味な数字のように思える。
 読める量がこのように限られている限り、読む一冊一冊の質を高めるほかはないだろう。すなわち、なるべく効率的にホンモノと出会いたい。それで本の真贋といったことが問題になってくる。
(中略)∵
 そこで振り出しに戻ることになる。真贋をどうやって見分けるか。向田邦子の小編に、信頼できる美術商からホンモノとニセモノを見分けるコツを聞き出している文章がある。それによれば、答えは一言、「あたたかさ」があるか否か。すなわち、ホンモノには美そのものへの愛がある。だから温かい。ニセモノにはそれがないので冷たい、ということであろう。確かにニセモノは、それで一儲けしようという金への愛はあるかもしれないけれど、美そのものへの愛を本質的に欠いているだろう。その温度差が、真贋を見分ける基準となる。これは言い得て妙な真贋判別法であって、そのまま本の真贋にもある程度当てはまるように思われる。
 哲学とはフィロソフィア・知への愛であり、哲学に限らずホンモノのテクストは知への愛、何らかの価値への熱い思いをもっているはずであり、その意味で本質的に温かい。それに比べ、業績作り、金儲け、頼まれ仕事、勉強覚え書き、研究で溜まったものの排泄作用、等々のためだけに書かれた本は、どこか冷たいだろう。そういう視点からホンモノを見分け、そしてそのホンモノを、我々自身、知への愛をもって、すなわち温かさをもって、熱をもって、読み解いていく。それ以外に、真贋ということはないのかも知れない。思えば一つの著書の中で、そのような熱のある箇所は限られているかも知れず、またニセモノにもどこかに熱い部分が隠れている場合もあるやも知れず、結局、真贋虚実入り交じってのせめぎ合いの中で、こちらの温かさに応じてホンモノが現出してくるというていのものかも知れない。骨董屋に「信用がつくに従い、彼の茶碗が美しくな」るものであり、結局「鑑賞も一種の創作だ」という小林の言は、この間の事情を言い当てたものにほかならないだろう。

(関根清三「本の真贋」による)

○■ / 池新