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課題集 ギンナン3 の山

○自由な題名 / 池新
○コンピュータと人間の心 / 池新
★ゼネラリストスペシャリスト、得意分野と苦手分野 / 池新
○日の丸君が代、経験と知識、規則と自由 / 池新
○第二に、通常の人間の / 池新
 第二に、通常の人間の生理的条件が同じだとして、つまり共通の感官に束縛されているとして、その共通性のゆえに、すべての事実は、すべての人間にとって共通であろうか。明らかに、そうではない。健全な視覚を備えた二人の人間がいたとして、その眼前にプロジェクターを通して一枚のスライドが写されている。そのスライドには、美しい紋様が現われている。一方の人間はヴェテランの医師であり、彼は、その紋様を、恐ろしいペスト菌と見ている。もう一方の人間は、顕微鏡や染色技術にはまったくうとい人物で、スクリーン上の紋様を、超現代派の絵画の一種と見ている。この二人の視覚、網膜上の昂奮の状態はあるいはほとんど完全に同じであるかもしれない。しかし、この二人にとって、眼前の「事実」は、明らかに違っている。
(中略)
 こうして、「事実」は、それを受け取る人間の置かれた「内的状態」すなわち「知識」と、「外的状態」すなわち「コンテクスト」とに依存する。このことは、観察ということが、単に、ある人間の網膜にある刺激が与えられて昂奮が起こった、ということを意味するものとして捉えられるべきではなく、端的にその人間の総体としてしか捉えられない、ということをはっきり示している。
 第三には、言語のもつ束縛がある。「事実」は、観察されただけでは、まだ私的体験である。それは、何らかの伝達手段を使って言表されなければならない。その最も精妙な手段が言語であることは言をたない。しかしその伝達手段は、逆に「事実」そのものに鋳型を与え、規制し、束縛することも認めねばなるまい。
 よく知られている事実だが、語彙の少ないことで著名なイヌイットには、雪の状態に関して、われわれよりはるかに多くの表現があって、われわれには区別がつかないような微妙な差異を言い表わすことができる。そうしたことばをもったイヌイットとわれわれの間∵に起こる、雪についての「事実」の相違は、おのずから明らかであろう。
 このように考えてくると、「事実」というものは、幾重にも、さまざまな枠組みによって束縛されていることがわかるであろう。
 多少結論めいた言い方をすれば、「事実」とは「事実」の世界への可能性として存在する「自然」から、人間が、さまざまな枠組み、型、鋳型をあてがうことによって選びとり、可能的多様体を現実的単様体へと収歛させることによって造り出されるものである。「事実」とは、そうしたやり方で選びとられたものであり、選びとるための枠組み、鋳型に従って、変化するのである。
 この結論は別段目新しいものではなく、デュナミスとエネルゲイアを区別したアリストテレスの昔から、繰り返し繰り返し、いろいろな形で語られてきた哲学的態度である。それをあらためてここで確認した理由は、自然科学が「客観的」で、それ以外には「自然との関わり合い方」があり得ない、という反論に対する再反論の根拠をそこに見出したかったからにほかならない。
 つまり、近代自然科学というのは、上に述べた意味で、一つの枠組み、一つの鋳型であって、われわれは、そうした枠組み、鋳型を使って、可能的多様体としての自然から、一つの「事実」の世界を選びとり、構築し、それを「現実」の世界として、その上に「自然科学的世界像」を打ち建てているのである。

(村上陽一郎『西欧近代科学(新版)』による)