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課題集 ゲンゲ3 の山

○自由な題名 / 池新
○ひなまつり / 池新
○ペット、大量の情報の中で / 池新
★日本人は、一般的には / 池新
 日本人は、一般的には、神社仏閣、能や茶道など、古きよき日本の伝統が好きで、それを誇りに思っているのだが、その一方で、実生活を見ると伝統破壊者とも言える側面をもっている。
 まず、屈指の横文字カタカナ氾濫社会であることを見、若者の言葉を聞けば、国語における伝統の軽視は一目瞭然である。古典としての言語の純粋性に対する感度が、フランスなどに比べてきわめて低い。実際、現在の日本語は横文字カタカナを抜きには成り立たなくなっている。年々大袈裟になるクリスマスのイルミネーションが終わると、正月には、依然として大勢の人が神社仏閣に初詣に行く。クリスマスまではまだよいとして、最近は、ハロウィーンも定着しつつあるようだ。
 その一方で、立春から大寒までの二十四節気にそった日本の伝統的季節行事は、テレビのニュースの枕詞である。
 また、食べ物に強いこだわりをもつ日本人は、旬にこだわるが、いまは養殖、輸入、ハウス栽培などで、ほとんど一年中手に入る。イチゴやスイカも一年中あるといってよい。二十四時間営業のコンビニが繁茂するように、消費者が望むことなら、利便性の向上のためならなんでもやる。アメリカに勝るとも劣らない商業マインドである。こうした高度消費者中心資本主義が、日本の一面としてすでに社会に根を下ろしている。
 さらに最近では、シュンとなると日本のものではなく、ボジョレー・ヌーボーに始まり、イタリア産ポルチーニやトリュフなどといった外国産のものでシュンを感じて楽しむといった本末転倒なことを国民挙げて行なっている。
 コメは日本人にとってただの主食ではない。依然として文化的、象徴的意味合いをもっている。だからこそ、コメの輸入を解禁しないのであり、国民もコメの自由化を要求しないのである。そのコメは「洗う」ものではなく「とぐ」ものである。にもかかわらず無洗米といってのけて何も感じない。こういうところにも日本における伝統のあり方があらわれているだろう。
 もっと面白いのは正月である。新年を新暦で祝うのは、アジア諸∵国ではおそらく日本だけではないだろうか。伝統を重んじるのであれば、やはり旧暦で祝うべきであろう。実際、権威を尊ぶ中国人は、依然として旧暦で正月を盛大に祝っている。新暦の正月など見向きもしない。韓国も同様に旧暦で正月を祝う。
 このように日本人は、古きよき伝統を重んじるという一方で、日々の行動は伝統などお構いなしである。名を捨てて実をとるとも、軽薄とも、柔軟とも、いい加減とも、節操がないともいえるのが、日本人の行動なのである。つまり、融通無碍でつかみどころがないのである。
 欧米社会は理念を優先するが、日本社会は現状を是認し生活を優先する。極端にいえば、「うそも方便」の社会である。別の見方をすれば、欧米では、概念化・抽象化・階層化を通して、矛盾を統合的視点から上位レベルで解消して、首尾一貫性を確保するように努める。しかし、日本では、矛盾は矛盾で併存へいぞんさせるか、生理的に切り捨てるか、あるいは無化してしまう。
 西欧的に考えれば、日本人の行為を見ていると分裂しないのが不思議であろうが、当の日本人は何も矛盾を感じていない。つまり、気にしていないのである。しかし、行為者としての日本人の心性には、なんらかの一貫性(合理性)が存在するはずである。それが西欧的な観点や現在の日本人論の枠からは見えないのである。

(小笠原泰『なんとなく、日本人』による)

○■ / 池新