昨日322 今日561 合計147919
課題集 ゲンゲ3 の山

○自由な題名 / 池新
○寒い朝、体がぽかぽか / 池新

★近代小説は一般に / 池新
 近代小説は一般に無制約な形式であるといわれている。無制約であるとは、限界まで希薄化された様式性を意味する。私に帰属する固有の内面を、そのまま忠実に模写し外部に対象化するには、表現媒体はできるだけ無制約的であることが望ましい。近代以前の日本語文には、様々な制約が課せられていた。明治期における「言文一致」とは、たんに口語と文語の一致を目指したものではない。国木田独歩の『武蔵野』以降の日本の近代小説であろうと、会話部分が忠実に「口語」を再現しているといえない点をあげるまでもなく、それは歴然とした事実だろう。今日でも事態は同様である。「対談」や「座談会」でも、会話のテープを忠実に起こした原稿と、公表される文章とのあいだには大きな相違がある。「対談」や「座談会」として公表される文章のほとんどは、日本の近代小説の会話体を規範として修正されているのだ。たんにテープを起こしたにすぎない文章は、読者の立場からいえばほとんど読むに耐えない。
 明治における「言文一致」とは、文語と口語の一致を目指すことを必ずしも意味していない。それは軍艦や軍隊を製造したり運営したりする主体(近代的な私)の内面をそれ自体として過不足なく外面化しうるための、可能な限り無制約的で無媒介的な、換言すれば様式性に制約されない透明な表現形態を無から創造するために求められた運動にほかならない。「言文一致」によって生誕した日本の近代小説のスタイルは、主語一人称代名詞を「自分」に、文章末尾を「デアリマス」に統一するよう決定された軍隊用語のそれとほとんど構造的に照応している。
 明治期において新文章をめぐる試行錯誤が、もっぱら近代小説の文体をめぐる問題として顕在化したことには必然的な理由がある。小説形式は他の伝統的な文芸ジャンルと比較して無制約的な、没様式的なジャンルである。だから小説は近代的な内面を外面に過不足なく移しかえる透明な表現形態として、近代における文学表現の王座の地位を確保しえた。
 しかし以上のような発生メカニズムの解明は、近代小説の自己∵了解を裏切らざるをえない。近代的な私は、固有の内面を小説形式という無制約的で透明な表現形態において、作品に対象化=外面化する。だが、「言文一致」が文字どおりの言文一致を意味していないように、無制約的で没様式的であると信じられた近代小説の言語には、暗黙の制約性や様式性が課せられているのだ。それは主体を規制するというよりも、主体なるものを事後的に産出するような超越的なメカニズムにほかならない。近代小説の作者および読者は、この超越的なメカニズムを制度であるとは認識しない。むしろ原理的に認識しえないというべきだろう。
 近代小説の言語と文体は近代以前に普遍的だった「作者のいない作品」の水準を超えて、作者=作品(内面=外面)という直結形態を可能ならしめたと自負している。けれども認識されない表現形態の物質性は、無意識的な制約として近代小説の作者および読者を密かに統御し支配している。それは文体についてのみいえることではない。近代小説の発生史を克明に検証してみれば、近代的な意識には大気のように自明であると信じられているものが、長年の曲折の結果としてかろうじて確立されたシステムにすぎないことも了解されるだろう。

(笠井潔氏の『探偵小説論序説』による)

○■ / 池新