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課題集 ゲンゲ3 の山

○自由な題名 / 池新
○新学期、冬休みの思い出 / 池新

★外国語には / 池新
 外国語には二者択一とか総てか無かというような思考法がある。二者択一は対立するものがあるとき、そのどちらかひとつを選択することだが、それは同時に他が否定されることを意味する。両者のよいところを採る折衷主義もないわけではないが、両者を共存させる考えはめずらしい。これはキリスト教という一神教の影響であるという説もあるが、絶対的対立が強調されている。総てか無かも一種の二者択一であるということができる。
 わが国では本来ならば併存できないはずのものが何ら矛盾も感じられないで共存している。一般の家庭で神棚と仏壇とが同じ部屋にあって、朝夕それぞれの様式によって「拝む」ことをきわめて自然であると思っている。仏教を信仰すれば神は否定しなくてはならないという一元論ではなく、仏も神も認める。多元論、複元論である。
 一元論から見ると多元論が得体の知れないものに見えるのはやむを得ないことかもしれない。日本語は多元論的文化の中で発達してきたものであるから一元論的一貫性、対立の原理をはっきりさせない。「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」主義である。一元論からすれば矛盾だということになる。
 しかし、多元論のメリットも忘れてはならないであろう。一元論は明晰ではあるけれども同一平面の上における問題しか処理することができないのは、矛盾する次元のものをすべて棄ててしまっているからである。それに対して、多元論では立体的な論理を追求することができる。一元論の論理では芸術とか生命現象をとらえにくいが、多元論は感情の比較的こまかいヒダにまで入って行くことができる。
 一元論の論理が平面幾何学的であるとすれば、多元論の論理は生物学的であるといえよう。
 多元論においては首尾一貫ということはむしろ退屈な単調さと感じられやすい。ドライブ・ウエイが一直線に伸びているとすれば運転者はかえって運転を誤りやすいといわれる。適当な曲線の変化があった方がよい。論理においてもまったく純粋なロジックはどう∵も人間らしさの乏しい冷たいものを感じさせがちである。悲劇はあくまで深刻でなくてはならない。いやしくも観客が笑いこけるような場面があってはよろしくないとするのが純粋を貴ぶ一元論である。ところが、シェイクスピアのような天才は滑稽な場面を挿入することによって、かえっていっそう悲劇感を高めるコツを知っていた。しるこをうまくするには砂糖だけでなく、ひとつまみの塩を入れるのと同工異曲である。どうもわれわれの感覚には純粋な論理だけでは満足しないところがある。それを考慮に入れているのが多元論的な論理というわけである。
 一見矛盾するものを調和させる多元論にとって、不可欠の方法は「とり合わせ」である。同類のものや筋のとおったものを集めるのではない――それでは月並みで退屈になる――互いに範疇を異にするものを結び合わせて意外のおもしろさを出す。それが「とり合わせ」である。ぼたんに唐獅子、竹に虎、などはそのとり合わせの感覚によって生れた絵画的世界の例である。不調和を越えた調和を支える論理に着目したものである。日本語はこういう柔軟な論理を表現するのに適しているし、逆に言えば日本語の論理はそういうとらえどころのない性格のものにならざるを得ない。

外山滋比古の文章による)

○■ / 池新