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課題集 ゲンゲ の山

★言語以外の表現方法は(感)/ 池新
 【1】言語以外の表現方法は、総括してこれを「しぐさ」または挙動といっているが、あるいはこの語では狭きに失して、「泣く」までは含まぬような感じがある。しかし、もっとよい名ができぬ以上は、用心をしてこの名で呼ぶより他はない。【2】ジェスチュア・ラングェージという語を、タイラーの原始文化論などには使っていて、これが社会生活の大きな役割をしていることは、少なくとも未開人については、くりかえし我われの実験し得たところであるが、実はありふれたこととして気に留めないばかりで、多くの文明人もまたそういう空気の中に生息しているのである。
 【3】それにもかかわらず、今日は言葉というものの力を、一般に過信している。それというのは書いたものが、余り幅をきかせるからかと思う。文章はすべて言葉ばかりから成立ち、日本はまた朗読法などということをまるで考えに入れない国であるから、【4】書いたものだけによって世の中を知ろうとすると、結局音声や「しぐさ」のどれぐらい重要であったかを、心づく機会などは無いのである。言語の万能を信ずる気風が、今は少しばかり強過ぎるようである。【5】「そう言ったじゃないか」、そうは言ったが実際はそう考えていなかった場合に、こういう文句でぎゅうぎゅうと詰問せられる。「何がおかしい」。黙って笑っているより外は無い場合に、言葉で言ってみろと強要せられる。「フンとはなんだ」。【6】説明してみよという意味であるが、実はその説明ができないから、ただ「フン」というのである。これらはたいていは無用の文句で、それを発言する前から、もう相手の態度はわかっているのである。むしろ、言語には現〔ママ〕わせないことを承認する方式みたいなものである。【7】泣くということに対しても「泣いたってわからぬ」、または「泣かずにわけを言ってごらん」などとよく言うが、そう言ったからとて左様ならばと、早速に言葉の表現に取替えられるものでも無い。【8】もしも言葉をもって十分に望むところを述べ、感ずるところを言い現〔ママ〕わし得るものならば、もちろん誰だってその方法によりたいので、それでは精確に心の内を映し出せぬ故に、泣くという方式を採用するのである。【9】したがって、言葉をもってする表現技能の進歩と反比例に、この第二式の表現方法が退却することは、赤ん坊から子供、少年から青年へと、段々泣かなくなってゆくのがよい証拠である。
 【0】ゆえに現代がもしも私の観測した通り、老若男女を通じて総体∵に泣声の少なくなってきた時代だとすれば、それは何らか他の種の表現手段、という中にも主として言い方の、大いに発達した結果と推定して、まずまちがいは無いのであるが、なお一方には泣くことが人間交通の必要な一つの働きであることを認めずに、ただひたすらにこれを嫌い憎み、または賎しみ嘲る傾向ばかり強くなっていることを考えると、あるいは稀には不便を忍んで、代りの方法は一つも無くても、なお泣くまいと努力している者が無いとは言えない。したがってこれを直接に人間の悲しみの、昔よりも少なくなった徴候と見ることは、まだ少しばかり気遣わしく、泣きさえしなければ子供は常に幸福と、速断してしまうことも考えものなのである。

(柳田国男「不幸なる芸術」より)