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課題集 ゲンゲ の山

○自由な題名 / 池新
○独裁と民主主義 / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

★「くるまざ」という言葉は / 池新
 「くるまざ」という言葉は、室町時代のころにはすでに日本語の中に定着していたらしい。一六〇三年(慶長八)に日本イエズス会が長崎で刊行した有名な『日葡辞書』にはCurumazaniという語が採られていて、例文としてCurumazani nauoru(車座に直る)があり、「皆の人々が円形に座につく」という説明がついている。
 何の具体的な根拠もないことだが、私はこの「車座」という語が、いずれにしても乱世の時代になってから人々に愛用されるようになったのではないかと想像している。「車座に直る」のは女たちではあるまい。合戦を前にした武士団、自分たちの権益を犯されそうになって対策を練るためひそかに集まった豪商たち、権力者に無理難題をふっかけられて鳩首協議するために集合した村の代表者たち、そういう男どもの緊張した顔が、この言葉の背後から立ちのぼってくるように思えてならない。
 しかしこの形のつどいは、いったん緊急事態が解決されれば、たちまち一転して、酒宴と歌舞放吟の場になるだろう。女たちもその時は車座に花を添え、その主人公にさえなるだろう。やがて天下太平の世ともなれば、もっぱら後者の車座が全盛となる。
 いずれにしても、全員が内側を向くという形の座のとり方は、集団の心構えを統一し、同心の者としての結束と忠誠を誓い合い、敵対する者たちに対する排他的情熱を高める上では、最も効果的な陣形だった。高校野球でもバレーボールでも、危機に臨んだ監督たちは皆これを応用する。何しろ車座に座るというのは、互いに顔と顔を向け合い、相手の一挙手一投足まで直接見つめていられる唯一の座り方なのである。祝いの席であるなら、一同心を同じくする快い興奮、盃を交わし合う歓びに、おのずと歌も踊りも出てくるのは当然だった。

(中略)

 私は財政とか経済とかの方面についてまったく暗い人間なので、まことに単純なことしか言えないが、アメリカと日本の間で極度に∵緊張が高まっている貿易摩擦や経済摩擦の根源には、単なる経済問題よりもずっと深い生活原理の食い違いが横たわっていることは明らかで、これを打開するにはたぶん何世代もかかるのではないか、さもなければ再び重大な衝突が激発することもありうるのではないか、という危惧さえ感じることがある。
 この摩擦は、「開放社会」と「車座社会」との対立、というふうにも単純化して言えるだろうが、アメリカの(そしてヨーロッパの、アジアの、その他全世界の)土地や不動産や美術品その他を次から次へと買い漁り、値を釣りあげておきながら、自国の土地や不動産その他に関しては、高い障壁を張りめぐらしてヨソ者の参入を可能な限り阻止する姿勢を貫こうとする日本人というものは、自由貿易、開放主義の原理を奉ずる人々から見れば、理解できないばかりか、異様な魂胆を内に秘めて世界征服の野望さえちらつかせて前進する邪悪な民族とも見えかねないだろう。アメリカ政府や議会の中にそういう感情が高まってくる時には、各地の市民の中にその何倍もの強さにおいて、同種の感情をたかぶらせている人々がいると見なければならない。

(大岡信『詩をよむ鍵』による。ただし一部原文を改めた)