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課題集 ガジュマロ3 の山

○自由な題名 / 池新
○ペット / 池新

○一九世紀後半のイギリスの / 池新
 一九世紀後半のイギリスの登山家のうちには文人、学者、知識人がたくさんみられるが、安全な社会の中に暮らしているこれら中流階級の人々にとって、登山とは自然の中で危険に対峙して勇気をたしかめ、しかも同胞意識を高めるための絶好の機会であった。しかも、荷物の運搬人とガイドをやとっての彼らの登山は、家事使用人の労働に支えられた彼らの生活様式にかなうものでもあった。運搬人とガイドはアルプス登山の不可欠の要素であるという繰り返された発言は、たしかに一方では登山に必要な慎重さの表明ではあるにしても、その発言のどこかに、中流階級の意識へのこだわりというか、固執が感じとれはしないだろうか。一九世紀後半のスポーツとしての登山には、つねにそのような中流意識がみえ隠れする。
 スティーヴンにしてもその例外とは言いがたいが、それでも彼の場合には、その潜在する中流意識を越えて、登山をスポーツとしてとらえようとする志向がつよくでてくる。しかも、彼の山岳エッセイのなかでそれが最も鮮明にでているのが、「岩場での墜落」をめぐる記述においてなのである。問題の文章は『自由思考と平易な語り』「一八七三」に収められている「アルプスでの魔の五分」と題されたエッセイ。谷間の岩場で墜落の危険に直面した「私」が、いかなる宗教上の立場を信じうるのか考えてみるという、たしかに一風変わった内容である。「私」はどのようにして「魔の五分間」の恐怖に耐えることができるのか。

 正直なところ、いかなる信仰をもつ人であっても、私と同じ立場におかれたら大いに心乱れるのではあるまいか。いくらかでも役に立つ唯一のヒントは、別の、はなはだ威厳に欠けるところから来た。何年も前のことになるが、テムズ河でのボート・レースに出ていて、一、二度負けたことがあった。そのときと事情が少し似ているのだ。負け試合の場合、すべての希望が消えて、ただばくとした名誉感からのみ漕いでいることがある。腕の筋肉は裂けそうになるし、背中は痛み、肺の血管がすべて切れてしまうのではないかとい∵う気分になる。残っている生命力のすべてが動物的な機械と化した体を動かすのにさし向けられるものの、ひどく辛く、体にも悪く、何らよい結果を生みだすはずもないこの作業を続ける確たる理由などありはしない。にもかかわらず、一瞬でもそれを中断すれば人生も幸福もないと言わんばかりに漕ぎ続け、残っているかぎりの精神力をその仕事にそそぐ。ちょうどそれと同じように、岩にしがみついていようとする努力が私の思考のすべてをしめていた。何があろうと、いかなる理由づけができるにしても、あるいはできないにしても、ともかくこのゲームの残された部分をきちんとフェアにやり通さねばならないのだ。

 スティーヴンの意図ははっきりしている。危険な岩場での生死をかけた努力をスポーツの、ここではボート・レースの隠喩で説明しているのである。たとえ敗北が分っていても最後まで全力を尽くすこと、それが彼の考えるフェア・プレイの精神である。ここでは、その精神がスポーツと人生の双方に共通するものとしてもちだされているのだ。それは、あるいは墜落の世俗化と呼んでいいのかもしれない。ロマン主義的な想像力の対象であったものが、世俗的なスポーツの枠の内で語りうるものに変容しているのである。その変容を可能にしたのは、言うまでもなく、登山の世俗的スポーツ化という時代の趨勢であった。

(富山太佳夫たかお『空から女が降ってくる』による)