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課題集 ガジュマロ3 の山

○自由な題名 / 池新
○学校、危機意識 / 池新

○ところが、近代になって / 池新
 ところが、近代になって欧米の影響を受けると、「ウソ」も「虚偽」も一括して「これを悪事と認定するような風潮が起こった」と柳田は言う。そして、柳田は西洋と日本の違いを当時既によく認識しており、日本では平気で「ウソばっかり」とか「ウソおっしゃいよ」とか言うが、これをそのまま英語に直訳すると大変なことになると指摘している。
 場を保つために、日本では「ウソ」がある。これに対して、西洋ではジョークがあるのではなかろうか。ここで大切なことは、日本では、場の方から発想し、次に個人に及んでくるが、西洋では、まず個人があり、その次に個人と個人の関係を円滑にする「日本的に言えば、場を保つ」ことが考えられるので、その在り方が異なってくることである。日本人であれば、その場を保つためには、あることないことを適当に話をしても、その言葉に個人としての責任はない「と言っても程度があって、あまりに「場あたり」のことを言うのはよくないと考えられる」。これに対して、欧米人の場合は、どんな場合にでも発言したことについてはその人の責任が伴うので、日本人的「ウソ」は言えない。と言って、すべての人が「ホント」のことばかり話をすると、ギクシャクしてきてたまらない。そこで、ジョークを言うことが必要になる。ジョーク抜きでは対人関係がうまくいかないのである。
 相手から何かが要求されるが、それは到底できそうにない。そのとき日本的であれば、相手の気持を汲んで、「難しいことですが、何とか考えてみましょう」と言う。しかし、これは西洋から見れば「ウソ」である。西洋人の場合は、「ノー」と言うわけだが、このときに場を和らげようとすると、ジョークが用いられる。そのジョークのなかに、相手の気持や、自分はどうしてもやりたいとは思うけれどできない、などという気持がうまく入れこまれていると、この人は「社交性」があるということで評価される。
 「社交的」という言葉は、日本ではむしろ否定的な感じを与える。しかし、欧米では、それはむしろ当然のことである。あちらでは、子どものときから「社交的」であるためのエチケットやふるまいについて訓練される。日本人は「ノーと言えない」などと言われるので、それを意識して、欧米人とつき合うときは、「ノー」と言うべきだと張り切る人がある。残念ながら、そんなときに社交∵性を身につけないままで「ノー」と言うので、大変粗野に見えたり、無礼に感じられたりする。それぞれの文化は、長い歴史のなかで、全体的にその生き方を洗練してきているので、他の文化とつき合うのは、ほんとうに難しいことである。
 こんな体験をしていると、無理して欧米に同調するよりは、日本の方法に頼りながら、その意味を説明する方がいいのじゃないか、と思ったりする。欧米の規範によると、日本人は「ウソツキ」ということになりやすいが、実はそうではないこと、場を出発点とするか、個を出発点にするかによって、言語表現の在り方がどう異なってくるか、などについて説明するとよい。欧米中心の考えは今も根強いが、他文化に心を開こうとする人も増えてきたので、この方が喜ばれることもある。

(河合隼雄『日本人と日本社会のゆくえ』による)

○■ / 池新