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課題集 ガジュマロ3 の山

○自由な題名 / 池新
○計画 / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○さらに、人格を形成していくための / 池新
 さらに、人格を形成していくための重要な場所として、かつては技術の修得が今日よりもはるかに重い手応えを持っていました。現在も技術の修得が人間を作っていることは事実ですが、しかし、これもまた、残念ながらその重さの点で戦線を縮小しつつあるといわなければなりません。たとえば、昔は大工さんになるためには一生の努力を必要とするといわれたもので、私のうちへ時たま来てくれる大工さんは三十年のベテランですが、そういう人が、「大工というものは一生修行ですよ」と今でもいっています。しかし、その後で彼は頭をかいて、「今どきこんなこといっていると、時代からとり残されますがね」とつけたすのです。
 というのは、現代では技術そのものが現実体験ではなくて、情報化された一種の知識の組み合わせになっていて、その分だけたいへん修得しやすいかたちに変わっているからです。早い話が、板というもの一枚を取り上げても、昔の板は人間が鉋を握って、その鉋を動かす自分の腕を通して体験する本当のものでありました。しかし、現在の板はほとんどが合成樹脂で、鉋や手は必要ではなく、いわば、人間の目さえあればそれで用のすむ存在になりつつあります。一枚の板がものであることをやめて、しだいに板のイメージ、すなわち一種の情報になりつつあるわけです。
 そうなると、それを扱う個人の技術はいちじるしく単純化されて、肉体に触れる体験の領域が小さくなって来ます。今日、技術の修得は一生の仕事だという人は、だんだん少なくなり、だいたい免許証をもらえば、技術はそれで完全に習得されたことになっています。料理人や理髪師、自動車の運転手に学校教師、すべて免許証をもらえば、彼にとって職業および技術の修得段階は終りだという意識が拡がっています。現に、それさえ持っていればまず最低限度の生活はできるわけですが、その代わり、その技術をさらに伸ばして、彼独特の技術にする楽しみもなくなりました。
(中略)
 職業のことをドイツ語ではベルーフ(Beruf)といいますが、ベルーフとは「神の呼び声」という意味です。日本語にも「天職」ということばがあるわけで、職業とは食うために勝手に人間が選ぶものではなく、最終的には運命か、あるいは神が人間をそこへ呼びこむものだ、という考えが伝統的にありました。それほど職業∵には神秘的といってよいほどの重みがおかれていたのですが、そのひとつの理由は、人間が職業訓練の中で意識的な知識以上のものを獲得する、という事実ではなかったでしょうか。ものに触れる体験というものは、たんなる知識の学習とは違って、人間が自分で意識できない自己の部分を豊かにします。鉋で板を削って十年、二十年を過ごすということは、彼の肉体の思いがけない部分をふとらせることもあるし、「職人気質」などという、いわくいい難い精神の部分を養うこともあります。じつは、人間の個性とはそうした無意識なものの集積として生まれるものであり、この部分こそ個人の中で真に交換不可能な要素だというべきでしょう。
 これに対して、現代の現実が情報化していくということは、いいかえれば、現実のすべてが知識化していくことであり、その内部の意識を越えた部分が消滅しつつある、ということだといえるでしょう。そして、それにつれて、現実とかかわる人間もまた情報化され、肉体も気質も持たない観念的な存在に変質しつつあるわけです。ひとつの中心を持ち、有機的な統一を持った「私」としての人間が解体し、巨大で、しかし全体像の見えない、奇妙な機械の部分品になりつつあるのが現代だと見るべきでしょう。

(山崎正和『混沌からの表現』による)