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課題集 ガジュマロ3 の山

○自由な題名 / 池新
○服 / 池新

○明治の新しい日本が / 池新
 明治の新しい日本が、西洋文明の移入を合言葉とし、その移植によって成立したことは、誰しも知るところですが、この輸入された西洋の「文明」のなかには、少なくもはじめのうちは「文学」は含まれていませんでした。
 明治初年の代表的思想家である福沢諭吉は、坪内逍遙が「当世書生気質」を発表したとき、「文学士ともあらう者が小説などといふ卑しいことに従事するとはる(しからん。」と憤ったと伝えられています。
 この挿話は真偽の点で多少うたがわしいようですが、少なくもこういう噂が不自然でなく流布したという事実は、象徴的な意味を持っています。
 それはまず諭吉らの代弁した「文明」の性格を、次にそのような時代の常識に敢えて逆った若い逍遙の反抗の意味を、さらにその作品の内容よりむしろ「文学士」の肩書で世間を騒がせた逍遙の仕事の実質を、巧まずして現わしています。
 諭吉と逍遙はともにすぐれた啓蒙家であり、西欧文化の紹介者であったのですが、彼等は二十歳の年齢の差とともに、異った価値の秩序に生きていたのです。「西学の東漸するや、初その物を伝へてその心を伝へず。学は則格物窮理、術は則方技兵法、世を挙げて西人の機智の民たるを知りて、その徳義の民たるを知らず。況やその風雅の民たるをや。ここに於いてや、世の西学を奉ずる者は、唯利をれ図り、財にあらでは喜ばず。……天下の士は殆ど彼のプラトオが政策を学びて詩人を逐はんとするに至れり。」と森鴎外が「しがらみ草紙」の創刊号でいいますが、ここに逍遙と並んで「風雅」の偉大な啓蒙家であった彼に、明治初年の時流がどう映ったかがはっきり示されています。
 福沢諭吉は西洋の武力とその根底をなす知力、あるいは西洋の社会をきずきあげた「人民の活発な気性」については、透徹した理解の持主でしたが、幾度か西洋の地を踏んだにもかかわらず、その芸∵術にたいしてはまったく何の興味も同感も示していません。
 幕吏として外遊し、「の国の『ダンス』を見れば捧腹に堪へず、」とした彼は終生その説を改めなかったので、自分の西洋讃美は、その「美術の美を見て之に心酔するにも非ず。」といいきっています。
 こうした文学にたいする態度は、福沢個人の資性より、むしろ明治の初年という時代の性格であったので、艦隊の脅威のもとに鎖国をとき、「列強」の圧力に対抗し、亡国の運命をさけるために、その文明の採用を焦眉の急とした時代の人々が「近時文明の骨髄こつずい」を「蒸気電信の発明、郵便印刷の工風……其他医薬殖産工業……政治経済論」とのみ見たのは当然のことであり、もっぱら国家に有用という立場からなされた明治初期の西洋文明移植が、後代から想像し得ぬほど、急激な革命として断行されたのと照応して、この時代を支配した啓蒙家たちの功利思想はいわば革命期の偏狭さを持つ徹底した性格のもので、そこに小説のような「無用」の存在を許す余地はなかったのです。
 したがってこの啓蒙家たちの頭脳に宿った文学不要論は、儒学と結びついた英国風の功利主義として後の時代まで明治の政治家の思想の基調をなしたので、逍遙以後の明治小説は、硯友社も、自然主義も一貫してこのような社会の良識にたいするさまざまな反抗の形式として発達したのです。
 このような時代の性格がもっとも露骨に現われた明治初年には、西洋の「文明」は新しい文学をおこすどころか、逆に在来の文学を枯らす作用しか持たなかったので、ことに戯作として江戸時代にはまともな文学としても扱われなかった小説は、わずかに社会の片隅に余喘を保つだけでした。

(中村光夫の文章より)

○■ / 池新