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課題集 ガジュマロ3 の山

○自由な題名 / 池新
○家、自己主張の大切さ / 池新

○冷戦は「仮想の戦争」などとも / 池新
 冷戦は「仮想の戦争」などとも呼ばれました。実際に砲弾が飛びかうことはなかったものの、米ソ両超大国がいつも敵意を向け合い、一触即発の状態が続く、ある種の世界大戦だったという理解です。四〇年あまり続いた冷戦が終わったとき、世界には「これで暗く危険な時代が終わった」という安堵感が広がりました。たしかに、米ソ核戦争の脅威が遠のき、圧政に苦しんでいた共産主義体制下の人々が解放されたのですから、そういう安堵感にも無理からぬものがあります。これで世界平和が約束されたかのような、楽観的な雰囲気さえ世界には漂いました。資本主義と自由主義が勝利し、もはや争いの種はなくなったのだから、これで「歴史は終わった」とする、いまにして思えば性急にすぎる予言まで飛び出したものです。
 言うまでもなく、世界の状況はそのように好転したりはしませんでした。むしろ、冷戦までの世界にはあまり見られなかった種類の戦争が見られるようになったのです。見られるようになっただけでなく、それが多発するようになったとさえ言えるかもしれません。
 その一つは、国家対国家の戦いではなく、他者との差異を意識する人間集団の間で、その差異を誇示することが目的であるかのように戦い合う武力紛争です。典型的には、一九九二年から九五年まで続いた、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ紛争を考えればよいでしょう。それまでユーゴスラヴィア人として共存していたモスレム(ムスリム)人、セルビア人、クロアチア人等の人間集団が、凄惨な殺し合いをくり広げた戦いです。
 分かりやすく、「民族紛争」と呼ぶこともできますが、一九四五年からの四六年間は、ユーゴスラヴィア国民として上手に共存していたのですから、全く異質な民族同士が争うのとはやや違います。また、民族ごとに自前の国家を持とうとした、というのとも少し違います。各共和国が「独立」した後も、それぞれの中で「民族」混在は続いているからです。むしろ、何かに憑かれたように他者との差異、つまり自分たちのアイデンティティを強調し、相手にそれを押しつけるために戦った、という面が多分にあるように思われる∵のです。
 このように、自己のアイデンティティを主張することが目的であるような政治関係を、イギリスの平和研究者であるメアリー・カルドーは「アイデンティティ・ポリティックス」と呼び、それが引き金となって起きる武力紛争を「新しい戦争」と名づけました。それに対する「古い戦争」とは何か。それも説明が簡単ではないのですが、しいてひとくちで言うなら、国益をめぐって国家と国家の間でおこなわれる戦い、ということになるでしょうか。
 国益というものが一応は具体的であるのに対し、アイデンティティというものは多分に抽象的です。自分のアイデンティティと他者のアイデンティティとの違いを強調したところで、それが必ずしも自分の利益に結びつくわけでもない。そのために殺し合いまでしなければならないことだとは考えにくいのです。それまで一つの国民として共存できていたのなら、なおさらそうでしょう。にもかかわらず、それが起きやすくなりました。旧ユーゴと似たような紛争が、冷戦終焉後、それぞれに違いはありますが、ソマリアでも、ルワンダでも、コンゴでも起きたのです。

(最上敏樹『いま平和とは』による)

○■ / 池新