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課題集 ガジュマロ3 の山

○自由な題名 / 池新
○運 / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○すなわち、人間の社会的欲望には / 池新
 すなわち、人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせて自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望との二つの形態があるのである。いずれも、一体どのような他人によってどのように認めてもらうかという点では大いに異なるが、他人に認めてもらいたいという社会的な欲望である点では変りがない。しかも、それらは往々にして同一の個人の中に共存している。
 当然、このような社会的欲望の二つの形態のちがいに応じて、モノに対する人々の欲求の形態も異なってくる。模倣への欲望は、人々に、他人が既に所有しているモノを求めさせ、他人と同じように消費させるであろう。また、差異化への欲望は、人々に、他の多くの人が所有できないモノや他の多くの人が未だ所有していないモノを求めさせ、また他人と異なった仕方で消費させるであろう。実際、すべての人間社会は、それぞれ独自の方法で、この二つの形態の社会的欲望の存在、とくにそのうちの第二の形態である差異化への欲望に対処してきたはずである。たとえば、多くの共同体的社会においては、共同体の内部では差異化への欲望は抑圧され、外部と接触する機会である祭やポトラッチや戦争においてのみ一時的にそれを満たしていたであろう。また、階級社会においては、この差異化への欲望は支配者階級のみが全面的に満たしうるものであったろう。実は、社会的欲望の対処の仕方として今あげた二つの例は、それぞれ大雑把に言って、商業資本的な利潤の創出方法と産業資本的な利潤の創出方法とに形式的に対応しているのである。そして、外部も階級差も失いつつある現代の資本主義においても、利潤の創出方法と社会的欲望への対処の仕方にやはり形式的な対応関係が見出しうることは、今までの議論から当然察しがつくにちがいない。
 現代の資本主義においては、だれもが差異化への欲望をもち、それを満たしたがっている。一体どのようにすればよいのか。もちろん、差異性という価値をもっている商品を買えばよい。だが、そのためには単に他人と異なった商品を買っても意味がない。他人が買っていなくて、しかも他人が価値あると認める商品を見つけ出さなければならないのである。もちろん市場には商品の種類は無数にあり、犬も歩けば棒にあたる。「いや、広告を通じて、棒の方が犬に向ってあたってくる。」そこで、だれかがどこかでそのような商品に行き当たり、差異化への欲望を満足したとしょう。これは、購買∵における一種の革新である。しかし、その購買における革新の効果も決して永続するものではない。なぜならば、ある人がある商品を所有することによって差異化への社会的な欲望を満足しているということは、同時に、まだその商品を買っていない他の人々がそれに価値を認めたことでもあるからだ。それは当然これらの人々の心の中に模倣への社会的欲望をひきおこすであろう。それゆえ、購買力が許すならば、かれらもその商品を買い始めるにちがいない。その結果、その商品の社会的な価値はますます高まり、さらに多くの人の中に模倣への欲望をひきおこし、模倣の群によって商品のブームが生れる。だが、このようなブームの中で、次第に差異性としての商品の価値は失われ、差異性への人々の欲望は再び不満足の状態に引きもどされる。それゆえ、また人々は差異性という価値をもつ新たな商品を探し求めていくことになる。そのような商品が再び見出されると、模倣によるブームがおこり、このブームの中でその商品も差異性という価値を失っていく。そしてまた……。
 ここでも、差異性の発見と模倣による差異性の喪失という、シシフォスの神話に似た反復の過程が支配しているのである。それは結局、他人に認められたいという人間にとっては絶対的である社会的欲望が、モノのもつ差異性という相対的な価値を媒介としてしか満たされないという、人間の欲望のはらむ根源的なパラドクスの産物であり、その部分的で一時的でしかありえない解決の終わることなき反復なのである。

(岩井克人かつひと『ヴェニスの商人の資本論』による)