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課題集 ガジュマロ3 の山

○自由な題名 / 池新
○本 / 池新

○自己決定・自己責任というのは / 池新
 自己決定・自己責任というのは裸の自己として、孤立無援で社会に立ち向かうということです。百パーセントのリスクを引き受ける代わりに、獲得された利益もまた誰とも共有せず、百パーセント独占すると宣言する主体が「しなやかで、たくましい個」として称揚される、という構図です。
 このような「孤立した人間」を「自立した人間」として自己形成のロールモデルに掲げるということが、だいたい八〇年代半ばくらいからフェミニズムとポスト・モダニズムに支援されるかたちで日本社会全体でしだいに合意を得てゆきました。「自立」と「孤立」の間には実際には千里の逕庭があるのですが、そのことを指摘した人はほとんどいません。
 「孤立している人」にとって、他者はすべて彼または彼女の自由や自己実現の妨害者です。百パーセントの自由を享受するのが「孤立した人間」の目標なわけですから、「他者が存在する」ということ自体がすでに主体の自由を制約することになります。主体は他者が占めている空間については、そこを可動域に算入できない。可動域について制約があるということは、主体の自由が損なわれているということですから、「孤立した主体」にとって、理論的に最高の状態というのは、世界に彼の他には人間が一人もいない状態だということになります。そうでしょう。そこにいるのが「敵」であれば、もちろん主体の自由の妨害者ですし、「友人」であれば支援や連帯の義務が生じるし、「奴隷」であっても扶養と管理という煩瑣な仕事を伴う。つまり、「百パーセントの自己決定・自己実現」というありえないものを求める人間は、論理の必然として、自分以外に誰が存在しても、それが自己実現の妨害者になるという不快な条件を生きなければならない。
 「自立している人間」というのは、そういうものではありません。「自立」というのは属人的な性格ではないからです。「オレは自立しているぞ」といくら力んでみても、それだけでは自立した人間にはなれません。その人の判断や言動が適切であることが経験的∵に確証されたために、周りの人々から繰り返し助言や支援や連帯を求められるようになった人が「自立した人間」と呼ばれるというだけのことです。「自立」とは名乗りではなく、呼称です。周りの人から「あの人は自立した人だ」という承認を受けるということです。「自立」というのは集団的な経験を通じて事後的に獲得される外部評価です。ですから、「自立した人間」は、「敵」であれ「友人」であれ、「保護すべきもの」であれ、多くの他者によって取り囲まれています。そのネットワークの中で絶えずおのれ自身を造型し、解体し、再改訂し、ヴァージョン・アップするのが「自立した人間」です。
 しかし、実際に八〇年代以降日本社会で「自立した人間」と呼びならわされてきたのは「孤立した人間」の方でした。
 人間の孤立化はさまざまな病態を取ります。「学びからの逃走」はその初期的なものの一つです。
 孤立した自分がたった一人で学校というシステムと正面切って向かい合っている。自分自身の価値観を学校システムに対等のものとして対峙させる。「これを勉強することにどんな意味があるんですか?」という問いをつきつける。自分にとって「価値がある」と理解できないものについては、これを学ぶことを拒否する。それが自己決定である。学ばないことから生じるリスクは自分で引き受ける、と。
 確かにそうなのです。彼らはそのリスクを堂々と引き受けているわけです。四則計算ができない、アルファベットが読めない、漢字が読めない、自分に興味のある領域についてのトリヴィアルな知識はあるけれど、興味がないことは何も知らない。意味の「虫喰い」状態の世界を特に不快とも思わずに生きている。そうやって彼らは階層下降のリスクをきっぱりと引き受けているわけです。

(内田樹『下流志向』による)

○■ / 池新