昨日394 今日65 合計152819
課題集 ガジュマロ3 の山

○自由な題名 / 池新

★心、疑問を持つことの大切さ / 池新

○テーマパークのなかで / 池新
 テーマパークのなかでもっとも成功した例として引き合いに出されるのが、長崎のハウステンボスである。「ヨーロピアンテイスト」に遊ぶ楽しみを提供する空間として宣伝されるテーマパークである。しかし、この概念化された空間には、その概念化を拒否する要素がある。建物の背景に見える長崎地方の山である。コンセプトはこの風景によって綻びをみせる。この山の風景は、ヨーロッパという概念から取り残され、ヨーロピアンテイストという概念を極東という日本の現実につなぎとめる。つなぎとめることは実は、概念への夢想を覚醒するという効果をもっている。コンセプトはこの風景によって綻びを見せるのである。
 概念の綻びを見せるこの風景については、たとえば中世に築造された日本庭園での「借景」を考えてみると興味深い。自然を抽象化し、囲い込まれた寺院の空間につくられる庭園は、さまざまにデザインされる。たとえば、京都嵐山の天龍寺の庭園は夢窓疎石むそうそせきによると伝えられるものであるが、その背景に嵐山を借景として取り入れている。この借景は、日本庭園のコンセプトにとってむしろ積極的な意義を与えている。それはつくられた庭園ではあるが、この空間は結局は現実の空間のなかに位置づけられるということである。「借景」とは、たしかに庭園外の景物がその庭園空間の景物として位置づけられるという意味で、コンセプトのなかに取り込まれる事態を意味している。しかし、逆に、概念として構想された庭園空間がつねに現実的な世界のなかに位置づけられているといういわば「醒ます」効果をももっている。そして借景の価値のひとつは、この「醒ます」効果のうちにあるように思う。
 天龍寺の庭園をつくったといわれる夢窓疎石むそうそせきは、『夢中問答集』で、「世間の珍しい宝物を愛好するなかに、山水をもまた愛して、奇石珍木を選び求めて、集めて置くひともある。このようなひとは山水のやさしさを愛さず、たんに俗塵を愛するひとである」と述べている。またつぎのような重要なことばがある。∵
 夢窓疎石むそうそせきの思想では、庭園をつくるにも、山河大地草木瓦石を自己の本分として心得て、山水を愛するべきだということになる。庭園は限定された空間であるが、それをつねに山河大地との関連でとらえることの重要性がここには語られている。コンセプトと外界との関係をとらえるのに、夢窓疎石むそうそせきのように考えるのと、テーマパークの思想とでは、ちょうど逆の発想になっていることが分かる。テーマパークの思想では、ヨーロッパ風景の向こうに見える日本の山は、概念のいわば綻びである。これに対して、日本庭園では、借景となっている山は、概念と風景とを結ぶきわめて重要な、積極的な役割を担っている。
 テーマパークの思想は、空間に価値を与えるという積極的な意味をもっているように見える。しかし、ここには意味を付与することが豊かな空間をつくることであるという重大な錯覚が潜んでいる。一定の概念がその空間のもっていた多様な解釈の可能性を廃棄してしまうのである。テーマパークでは空間の価値のコンセプトが、その空間の囲い込みと大規模な土木工事を伴うという点で、空間そのもののもつ価値の多様性を損なう。しかも、この囲い込みは、物理的な隔壁によって行われる。いわばハードなゾーニングである。このようなハードゾーニングとしてのテーマパークの経営が破綻したときのことを考えるとよい。それはコンセプトの破綻であるが、管理できなくなった空間は囲いこまれたまま放置される。しかし、そこには、雑草が侵入してくるであろう。自然にはゾーニングは存在しない。それはただ人間の概念的思考によって生み出されるのである。

桑子くわこ敏雄『環境の哲学』による)